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日米開戦の「真の原因」を作ったのは誰か

渡辺惣樹(日米近現代史研究家)

ヒトラーは副総統ヘスをイギリスに送り込んだが……

ナチスドイツは開戦後、しばらくはその戦火を西側に広げなかった。

1939年9月1日のポーランド侵攻から翌40年5月の間は、独と英仏との地上戦はほとんどない。この時期を欧米の歴史家は「Phony War(偽りの戦争)」と呼んでいる。

筆者は、ヒトラーが英仏とは戦いたくない姿勢を見せることで、暫定休戦協定に入る機会を窺っていた時期ではないかと考えている。

独ソ戦の緒戦(バルバロッサ作戦)の少し前の時期(1941年5月から6月)には、英国の敗北は濃厚であり、ドイツとの和解を探ることの是非が、英国内では真剣に議論された。

すでに中立の立場をかなぐり捨てて対英軍事支援を強化していたルーズベルト政権内部からも、軍事支援を中止すべきだとする声が高まっていた。

こうした状況の中にあってヒトラーは、対英戦争の休戦を求めて最後の賭けを打った。勝勢にある時期だからこそできる博打であった。

1941年5月10日、アウクスブルクの町(ミュンヘン北西およそ70キロメートル)は晴れ上がり、絶好の飛行日和であった。

この日の夕刻(5時45分)、一機の双発機(メッサーシュミットBf110)が、北に機首を向けてこの町を飛び立った。

操縦するのは、ナチスドイツのナンバーツーであるルドルフ・ヘス(ナチス副総統)だった。ヘスは、ミュンヘン一揆(1923年)の失敗でヒトラーとともに収監されて以来、苦難をともにした同志であった。

北海を北上した同機は北緯55度40分付近に達すると、進路を西に取りスコットランドの町グラスゴーを目指した。ヘスがグラスゴーの南およそ15キロメートルの農村イーグルシャムにパラシュート降下したのは、その日の夜11時を少し回った時のことである。

ヘスがスコットランドを目指したのには理由があった。何とかしてハミルトン公(英国空軍准将、スコットランド防空担当)に会い、彼を通じて英国王ジョージ6世との謁見を実現させたかったのである。

国王を説得し頑迷なチャーチルの対独外交を変更させ、暫定休戦に持ち込みたかった。ヘスは、着地の際に足を挫き身動きが取れなくなっているところを、イーグルシャムに住む農夫に発見された。

知らせを受けたハミルトン公は、メリーヒル仮設病院に運ばれていたヘスに会った(翌朝10時)。公の報告書には次のように書かれている。

「彼は、『(ヒトラー)総統は英国を敗北させようとは考えておらず、戦いを止めたいと願っている。今回の飛行は4度目であり、以前の試みは悪天候で失敗した』と語った」

ハミルトン公は対独宥和派の有力者であり、国王にも近い立場だった。ヘスは公にヒトラーの思いを伝えることはできたが、そこまでであった。

国王に会うことは叶わなかった。グラスゴー郊外の古城(ブキャナンキャッスル)に幽閉され、その後ウェールズの病院(Maindiff Court Hospital)に移送された。

チャーチルは、ヘスを厳重な監視下に置いただけで、けっして会おうとしなかった。英国存亡の危機にあって、ナチスドイツのナンバーツーが自身の生命をも顧みない決死行で、スコットランドにパラシュート降下したのである。

筆者にはなぜチャーチルがヘスに会おうとしなかったのか、理解できない。リアリストの政治家であったなら少なくとも直接ヘスの話を聞き、ドイツの真意を探ろうとしたはずである。

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