ヤルタ密約は「極秘扱い」とされて公表されず、したがって日本の軍・政府は知る由もなく、1945年8月9日に始まるソ連軍の満洲侵攻は「寝耳に水だった」、と教科書では教えられてきました。しかし、東京の参謀本部にこの極秘情報を打電した情報将校がいたのです。
スウェーデンの首都ストックホルムの日本大使館に派遣された駐在武官、小野寺信(まこと)です。
小野寺は陸士卒業後、ロシア革命を妨害するためのシベリア出兵に従軍した際、ロシア人家庭に泊まり込んでロシア語を習得しました。参謀本部第二部(情報課)のロシア班に配属、ソ連情報を収集するため、バルト三国の駐ラトビア日本大使館の駐在武官として派遣されました。
ソ連がバルト三国を併合したため、小野寺はスウェーデンの日本大使館に移ります。 小野寺の元には、ソ連からの独立を求めるポーランドやバルト三国の情報将校たちが集まり、「小野寺機関」が活動を開始しました。その中心人物は、自称「亡命ロシア人のイワノフ」。
その男の正体はポーランド亡命政府(在ロンドン)の情報将校リビコフスキーでした。彼は配下に数十人の工作員を抱え、小野寺から得た枢軸国側の情報をロンドンに提供する一方、見返りとして連合国側の情報を小野寺に伝えていたのです。
情報戦とは常にギブ・アンド・テイクです。年間20万円(現在の価値で2億円)を工作費として使っていた、とのちに小野寺は証言しています (岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電―――情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書))。
ポーランド亡命政府経由で「ヤルタ密約、ソ連の対日参戦」の極秘情報を得た小野寺は驚愕し、暗号電報で東京の参謀本部へ打電します。また小野寺と親交のあったスウェーデン王族のベルナドッテ伯は、スウェーデンが日米の講和を仲介してもよい、と申し出ます。
このスウェーデンを仲介者とする終戦工作が成功していれば、ドイツ降伏に続いて日本も1945年5月の沖縄戦を最後として戦争を終結し、広島・長崎への原爆投下も、ソ連の対日参戦によるシベリア抑留問題も北方領土問題も起こらなかったわけです。
しかし東京の参謀本部は、小野寺がもたらしたヤルタ協定の極秘情報を握りつぶし、スウェーデンを仲介者とする和平工作案を却下しました。
ソ連の対日参戦を知らなかったのではなく、知っていてその情報を握りつぶし、鈴木貫太郎首相と東郷茂徳外相には、ソ連を仲介者とする和平交渉を要求していたのです。まるでソ連軍に対日参戦の準備時間を与えるかのような、奇怪な行動です。
日露戦争における明石元二郎と、第二次世界大戦における小野寺信。この二人は、日本陸軍が生み出した世界水準の情報将校であり、スパイ・マスターでした。
明治政府は、明石情報を通じて革命運動に揺らぐ帝政ロシアの内情を深く理解し、ギリギリの線で妥協して日露戦争を終結させました。ところが昭和の日本陸軍は、小野寺情報をことごとく黙殺し、祖国を滅亡に追いやったのです。たった50年で、組織がこれほど劣化するとは考えられません。むしろ、ソ連の対日謀略という別の側面を考える必要がありそうです。
(この問題に関する私の推理は、近著『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』(TAC出版)の第12章に書きました。読者諸兄にご高覧いただきたいと思います)
更新:10月09日 00:05