2019年08月19日 公開
2019年08月19日 更新
まず、掃海部隊の派遣についてだ。日本は朝鮮戦争当時、旧日本海軍の掃海部隊を派遣し、実は戦死者を出している。香川県の金刀比羅宮には、この「掃海殉職者」の慰霊碑が建てられていて、海上自衛隊は毎年海軍記念日の5月27日に慰霊祭を行っている。
吉岡議員は、まずこの問題について、こう質問をしている。
《一 掃海部隊の参戦について朝鮮戦争にさいして、戦後米占領軍によつて温存された、海上保安庁所属の旧日本海軍掃海部隊1,200名が機雷掃海のため参戦した。
これに関し以下の質問に答えられたい。
1 元在日米海軍司令部政治顧問であり、現在米国防総省日本課長の職にある、ジェームス・アワー氏の博士論文の邦訳である『よみがえる日本海軍(上)』によると「1950年10月2日から12月12日までの間に、四六隻の日本掃海艇、大型試航船(水圧機雷掃海用)および1,200名の旧海軍軍人は元山、群山、仁川、海城、鎮南浦の各掃海に従事して、327キロメートルの水道と607平方マイル以上の泊地を掃海した。」とある。
一方、『海上保安庁30年史』は、「掃海艇20隻、巡視船四隻及び試航船1隻」によつて「4個の掃海隊を編成し」「第七艦隊司令官の命令に従つて行動」させたと記している。
正確には何隻、何人がどういう形で参戦したのか明らかにされたい。
2 ジェームズ・アワー氏の前記論文『よみがえる日本海軍(上)』によるとその経過はつぎのようにえがかれている。
「バーク提督は、アメリカ海軍が相当の障害を排除しうる掃海部隊を持つていないこと、とくに北朝鮮海域に進入すれば複雑なソビエト製感応機雷に遭遇する可能性について、よく知つていた。この感応機雷を処理できる、高い練度を持つ大きな掃海部隊がたつた一つあつた。
それは海上保安庁の掃海部隊で、日本内地の沿岸航路や瀬戸内海の掃海作業に当時なお従事していた。元山上陸作戦実施がはつきりと決定されたあとで、バークは大久保長官を極東アメリカ海軍部隊司令部作戦室に呼んで、アメリカ軍の元山上陸作戦の必要性を説明し、同海域にソビエト製機雷が敷設されているかもしれない点について、彼が懸念しているところを大久保に伝えた。」
「バークは大久保に対して日本の掃海艇を対馬海峡地域に集合させて、元山沖の掃海を援助し仁川の敷設機雷の後始末を支援するよう要請した。大久保は、この要請を受け入れる決定は海上保安庁長官としては余りにも重大すぎるので、決定を下してもらうために吉田首相に会つて話を伝えることにしよう、と答えた。」
「掃海作業は戦闘であり、海上保安庁法の第二五条には、海上保安庁は非軍事的部隊である、と明記されてあつた。旧日本海軍軍人に対して、アメリカ軍の支援作戦に彼らの生命を賭けさせることは、きわめて説明困難であつた。
日本は当時なお占領下にあり、総司令部の支配下にあつた。吉田首相は大久保海上保安庁長官に対して、同庁の掃海艇をアメリカ海軍の希望どおりに派遣するよう伝えた。
当時、海上保安庁航路啓開本部長であつた田村久三元大佐は、1950年10月2日、彼が指揮官となつて朝鮮派遣掃海部隊を編成した。隊員の中には朝鮮行きをためらう者もあつたけれども、給与を2倍にすると約束され、田村、バークおよび三田―当時警備救難監―から強い激励の言葉を与えられたのちには、朝鮮行きをどうしても嫌だという者はいなかつた。
1950年10月6日、極東アメリカ海軍部隊司令官ジョイ中将は運輸省に対して、連合軍最高司令官の公式承認書を送り、極東アメリカ海軍部隊司令官の命令どおりに掃海艇20隻を集合させるよう命じ、掃海艇には朝鮮海域にあるときはただ国際信号旗のE旗だけを掲げるよう指示し、また(隊員たちには)2倍の給与を支給するよう命じた。」
こうして日本の掃海部隊は同年12月15日まで朝鮮戦争に参戦したと記録されている。
以上の経過もふくめて、参戦に至るまでの事実関係を明確にされたい。また派遣された掃海部隊の地位、隊員の身分はどういうものだつたのか。
3 ジェームス・アワー氏によれば、この掃海部隊の朝鮮戦争参戦は、米軍の要請をうけて日本政府が派遣を伝え、米軍の承認をえておこなつたという形になつている。日本政府が朝鮮戦争に参戦する掃海部隊を派遣したことは、海上保安庁法および日本国憲法に違反するものであることは明白である。政府はこれを今日、法的にどう説明するのか。
4 この掃海参戦による死傷者についてジェームス・アワー氏の前記論文ではつぎのように記されている。
「二隻の掃海艇が沈没―一隻は元山沖で掃海中触雷、他の一隻は群山で座礁―し、掃海艇が触雷沈没する際に日本水兵一人が死亡し、八人が負傷した。大久保海上保安庁長官は、日本掃海艇が朝鮮海域にある間はほとんど毎日のように、吉田首相に、同海域の掃海について簡単に報告した。
日本政府は戦死者や戦傷者に対する補償についての立法措置を講じていなかつたので、吉田首相と大久保長官は日本掃海隊員に死傷者が生じた場合のことを心配していた。大久保はこの件についてバークに話していた。
そして日本掃海隊員が戦死したとき総司令部公安局の者がその戦死者の家庭を弔問し、その父親に補償金を支払つた。」
この記述のとおり死傷者が出たのか。戦死者への補償金はどんな法的根拠にもとづいて出されたか》
更新:11月22日 00:05