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なぜいま、天皇だけが「エンペラー」なのか

2018年10月18日 公開
2024年12月16日 更新

倉山満(憲政史研究家)

19世紀は「皇帝たちの時代」だった。しかし現在、世界で「エンペラー」と呼ばれるのは、日本の天皇だけである。 ではなぜ、日本の天皇だけが残ったのか。憲政史研究家である倉山満氏の著書『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』(PHP新書)から一部抜粋し、近代日本の成功の「真実」を見ていこう。

 

明治時代がすっかり重なる「長い19世紀」とは

日本は長いあいだ、ノンキで幸せな国でした。ノンキで幸せでいられたということでもあります。

原始と呼ばれる時代から古代も中世も近世も、「世界史」などという野蛮極まりないゲテモノと関わらずに済んでいたからです。日本人が学校で習う「世界史」など、いってしまえば「ユーラシア大陸での殺し合いの歴史」です。

それがいかに野蛮かは、小著『誰も教えてくれない 真実の世界史講義』(PHP研究所、2017ー18年)で、ぜひご覧ください。

しかし、そうはいかなくなる時代を迎えます。決定的にそうなったのが、19世紀です。

1648年のウェストファリア条約以降、ヨーロッパは大きく変わりつつありました。最近の西洋史学では1688年から1815年までを「長い18世紀」と呼ぶそうです。

その約130年のあいだにイギリスは1688年の名誉革命で傲慢この上ない王ジェームズ2世を追い出したり、アメリカ独立戦争には負けたりするなど、試練の連続でした。

アメリカ独立戦争に負けた後、イギリスはスウェーデンやデンマーク並みの小国になったといわれることもあります。さすがにそこまで落ちぶれたといえばいいすぎですが、もがきつづけたのは事実です。

それがかえって、大国への道となりました。イギリスの大国への道の前半戦は「苦闘の18世紀」です。日本にもそうした、はるか海の向こうの変化の波が届こうとしていました。

そして迎える19世紀。イギリス史では「長い19世紀」と表現することがあります。一般的な意味での19世紀(1801年から1900年までの100年間)の捉えかたとは異なり、歴史をどう見るかという歴史観が反映された言葉です。

いつからいつまでを「長い19世紀」とするかは人によって微妙に違っているようです。ここでは、西暦1815年から1914年までを「長い19世紀」とする説に則ることにします。

1815年と1914年には何があったでしょうか。

1815年はウィーン会議後のウィーン体制が始まった年です。ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争で失われたそれまでのヨーロッパの秩序を取り戻そうと行われました。

つまりは王政を復活させようというわけです。会議がなかなか進まない様子を評した「会議は踊る、されど進まず」という言葉はあまりにも有名です。

ウィーン会議の模様を描いたオペレッタ映画『会議は踊る』(1931年、日本初公開は1934年)は日本でも大ヒットしました。そして、1914年は第1次世界大戦が起きた年です。

「長い19世紀」はイギリスにとって黄金期です。イギリスが露墺普三国と組み、フランスのナポレオンを倒したのが1815年。それから、第1次世界大戦が勃発する1914年までの約100年のあいだに、大英帝国として真に大国となっていきました。

我が国日本でいえば、明治時代(1868年ー1912年)が「長い19世紀」にすっかり重なります。明治という時代は日本が幕末を乗り切り、維新を断行し、大日本帝国として世界史に躍り出るや、大国へと向かった時代です。

歴史を語るには相対評価が不可欠です。

「長い19世紀」における日本を明治時代という日本国内のことだけで語ったところで、日本の真の姿は見えてきません。世界と比べて、初めて見えてくるはずです。

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