2018年09月01日 公開
2024年12月16日 更新
大反響のあった前記事に続けて、一橋文哉著『オウム真理教事件とは何だったのか?』(PHP新書)より麻原逮捕時の状況を引用、紹介したい。「動きが鈍重で、カリスマ性のある男にはとても見えなかった」「信者には粗食しか与えず、厳しい修行を強いておきながら、自分はステーキや刺し身、メロンと贅沢三昧の食事を貪っている。ただの犯罪者と変わらないじゃないか」と、当時捜索を現場で指揮していた管理官に言わしめた逮捕劇であった。
五月十六日。麻原の逮捕に向かった際の上九一色村は早朝から雨雲が低く垂れ込め、濃霧が漂っていた。その中を完全武装の機動隊を先頭に大規模な警官隊が一斉に教団施設に突入した。
「何としてでも麻原を早期発見せよ!」
という指示が、直前に開かれた警察庁刑事局と警備局両幹部の合同捜査会議で示された。文字通りの至上命令であった。
同年三月の教団施設への強制捜査を間に挟んで、地下鉄サリン事件や國松孝次・警察庁長官狙撃事件などの重大事件が立て続けに発生したこともあり、オウム追及の主体は警視庁刑事部捜査一課から公安部に、警察庁刑事局から警備局に移されていた。
警察庁刑事局は麻原を発見次第、任意同行を求め、何かの容疑を見つけて身柄を拘束する方針を打ち出し、警備局に身柄の早期確保を要請した。
刑事局としては麻原の身柄確保後、殺人予備罪で逮捕して起訴に持ち込み、その後、地下鉄サリン事件の取り調べを徹底的に行うことにしていたのだ。
ところが、肝心の麻原がどこに潜んでいるか分からなかった。
教団周辺や教団シンパのメンバーからは「京都に潜んでいる」とか「石川で目撃された」「やっぱり上九一色村の教団施設だろう」などの情報が乱れ飛び、教団側の捜査攪乱戦術もあって、所在を確認する端緒さえ掴めなかった。
公安部は麻原や家族らが乗るロールスロイスやベンツなどの高級車を徹底的にマークしたが、麻原は姿を現さず、彼が最近お気に入りの愛人や、常に側に付いているボディガード役の信者の動向をチェックするも、麻原の影さえ認められなかった。
更新:12月22日 00:05