2018年06月21日 公開
2022年06月27日 更新
世界に目を向けると、ここでは2つの事件が目立った。平成9年のダイアナ妃の交通事故、13年のニューヨークの同時多発テロである。どちらも公式見解が疑われているが、同時に公式見解以外の見方はしばしば陰謀説として片付けられる。ここにもファンタジーと事実のあいだの現代の混乱が認められるように見える。政治的事件がいわばファンタジーと関わってしまう。
個人的には私は、どちらの事件についても、初めから公式見解を信じていない。それは昭和20年8月15日を知っているからである。多くの人が純粋に何かを信じ、命懸けになって行動する時代ですら、その根拠が真っ赤なウソに近いことがある。それを小学校で学んでしまった。
まして、ああいう特殊な2つの事件に裏がないはずがない。とくにブッシュ政権は、その後大量破壊兵器についても、フセインとアルカイダの関係についても、ウソをついたことがはっきりした。
ネオコンは「正しい政治上の目的のためには、ウソをついてもいい」という信条の人たちだから、その意味では正直だった。その種の正直な人たちの言い分を信じるほうがバカなのである。
私は自分で調査したわけではないから、事実を知っているとは言わない。しかし状況を見れば、誰がどう利益を得たかは明らかであろう。状況証拠だけでは、司法上の断罪はできない。
しかしそれは法の枠内で行なわれるもので、こうしたテロ事件のように、初めから法の外にあるものについては、とくに私人の場合、状況証拠による判断以外、ありようがない。
ニューヨークの同時多発テロは、「忠臣蔵」みたいなものである。元禄の平和なご時世にテロが発生し、それが芝居にまでなっても、江戸幕府はなぜ芝居を禁止しなかったのか。それは私の素朴な疑問だった。
それを解決してくれたのが竹村公太郎『土地の文明』(現在は『日本史の謎は「地形」で解ける』PHP文庫に所収)である。長良川の水利権まで絡んでいたのか。江戸時代は決して「遅れた」時代ではない。
狭く、災害が多い日本の国土の、資源の制限のなかで、必死に生きようとした人たちに、さまざまな方策が生まれた。それは陰謀ではなく、知恵と呼ぶべきかもしれない。それに比べたら、ネオコンははるかに単純、お粗末という感じがしないでもない。
更新:11月21日 00:05