2018年03月08日 公開
リベラルな国際秩序の実質的な始まりは、第2次世界大戦に求められる。1941年1月、一般教書演説でローズヴェルト大統領は、大戦後はあらゆる人びとが、言論の自由、信教の自由、恐怖と欠乏からの自由の「4つの自由」を享受できなければならないと訴えた。
この宣言は「人権」という言葉こそ盛り込んでいなかったが、それを実質的に先取りしたものと見なされ、リベラルな国際秩序の重要な端緒と位置付けられてきた。
しかし当時のアメリカがはたしてどれほど人権を重視していたかとなると、多くの留保が必要となる。当初「4つの自由」のあいだには必ずしも序列はなかったが、その後大統領の関心は「安全」、具体的には米英ソ中の「4人の警察官」による戦後秩序の維持へと移り、「恐怖からの自由」の実現が、ほか3つの自由の先決課題と位置付けられていった。
このような政策決定者の関心を反映し、ソ連・イギリス・中国とのダンバートン・オークス会議(1944年)に向けて米政府が完成させた国連案は、大国と小国の平等や人権問題よりも、大国の共同行動による秩序管理に力点が置かれていた。
サンフランシスコ会議(1945年)を経て最終的に完成した国連憲章が、ダンバートン・オークス案に比して、より充実した人権規定を盛り込んだものとなった背景には、ダンバートン・オークス案の大国中心主義に対し、アメリカ国内のNGO(非政府組織)や、サンフランシスコで初めて国連憲章に関する議論に加わった中小国から続々と批判の声が上がったことが大きい。
「リベラルな国際秩序」論においては、その形成においてNGOや中小国が果たしたこのような役割は見過ごされている。
(本記事は『Voice』2018年4月号、三牧聖子氏の「『偽善的リアリズム』のすすめ」を一部、抜粋したものです。全文は3月10日発売の4月号をご覧ください)
更新:11月23日 00:05