現代的リスクの特徴はグローバル化である。グローバリゼーションにより、現代のリスクはグローバル化し、危機管理も国際協調が求められる時代となった。ウルリッヒ・ベックが指摘したグローバル・リスクには、(1)環境問題、(2)金融危機、(3)国際テロリズムの3つがあるが、現代においては食品の安全・安心から、原子力問題、海外旅行、戦争・紛争まで幅広くあらゆるリスクがグローバル化しているといえる(福田、2010a)。
こうしたグローバルなリスクに対して、危機を未然に防ぐためのリスク・マネジメントに求められている能力は「インテリジェンス」である。日本語では情報活動、諜報活動とも訳されるインテリジェンス活動は、政策立案のために要求される情報を収集し、分析し、評価し、共有して、政策化するために、たんなる寄せ集めのインフォメーション(情報)を、インテリジェンス(知恵)に変える活動である(福田、2010b)。
このインテリジェンス活動は、危機の領域を問わないまさにオールハザードな活動である。日本では、こうしたインテリジェンス活動が戦争やテロ対策の文脈で語られがちであるが、このインテリジェンス活動は自然災害対策にも、原発事故対策にも、サイバー攻撃対策にも不可欠であることを自覚する必要がある。世界中でそして日本中で発生している事案について、幅広く情報収集し、それを他人事とするのではなく、自分事として活かして、自分の組織の危機を未然に防ぐための知恵とするインテリジェンス的思考が現代の日本人に求められている。
さらにはリスクの個人化が進んでいる現代社会においては、このインテリジェンスの能力は、政府や自治体、企業だけでなく、私たち一人ひとりの個人にも求められている。日本人のインテリジェンス的思考を鍛え、育てる社会教育が必要である。
インテリジェンス能力の強化を伴う危機管理には、さまざまな方法、手段による情報収集、監視活動が伴うことになる。その監視の対象が火山であったり河川であったりする自然災害対策における監視活動、情報収集では、政治的価値をめぐる問題は発生してこなかった。しかしながら、その監視活動や情報収集が人や組織、国を対象としたものとなるとき、イデオロギーや政治的価値をめぐる根本的な問題が発生する。
防犯対策やテロ対策のために街頭や駅、空港などの公共施設に監視カメラを設置する場合、または戦争を防ぐための外交、テロ対策のために実施される通信傍受において電話やメールなどが傍受される場合、個人のプライバシーなどの人権や自由が損なわれる事態が発生する可能性がある。アメリカで発生したスノーデン事件は、国家安全保障局(NSA)による世界中での通信傍受の実態が暴露された典型的な事件であった。
テロや戦争を未然に防ぐためにはこうしたインテリジェンス活動は不可欠であり、それにより国民の「安全・安心」は守られるが、そのインテリジェンス活動が行きすぎると、国民の「自由・人権」が損なわれるという政治的価値をめぐるトレードオフの問題が発生する。危機管理をめぐって、この「安全・安心」と「自由・人権」のバランスを取るための国民的な議論と合意形成こそ、現代の日本に必要である。
同時に、「危機管理学」に求められるのは、危機管理によって守るべきものは何なのか、国民の生命・財産か、歴史や文化か、民主主義という価値かといった、その思想的で哲学的な検討である。政府の危機管理によって守られるべき国家主権には、領土と国民と統治機構が含まれるが、危機管理が求められるレベルは政府や自治体による公助のレベルだけではない。企業やボランティアなどの組織体による共助や、家族や近所のコミュニティによる互助、さらには自分の身を自分で守る自助まで、危機管理にはさまざまなレベルが存在する。政府や自治体による公助に基づいた危機管理を強化すれば大きな政府、社会民主主義的な国家体制をもたらし、個人の自助に基づいた危機管理を徹底すれば新自由主義的な国家体制に結び付くように、危機管理の在り方と政治的価値、国家体制の形態は深く結び付いているのである。
これまで、日本の危機管理や安全保障は、政治の文脈において翻弄されてきた。かつて、PKO法は自衛隊を海外派兵する道を開き戦争につながると批判され、通信傍受法は盗聴法と揶揄され、国民保護法は治安維持法の復活とラベリングされた。これと同じ文脈で、特定秘密保護法は戦前回帰の監視社会をもたらし、安保法制は戦争法とレッテル貼りされた結果、国会やジャーナリズム、学会でも建設的な議論が熟さないまま、議会において数の力で成立するという不幸な歴史が繰り返されてきた。
これらの安全保障や危機管理に関連する日本の法制度改革は、グローバリズムの時代において安全保障が国際化、集団化する過程のなかで第3の開国として国際協調路線のもとに求められる圧力により、日本が生まれ変わる産みの苦しみの過程であるといえる。
危機管理や安全保障は、保守派でタカ派の専売特許であるという誤解が日本にはまだある。どのような国家体制であろうと、どのような政権であっても、国民の生命や生活を守るための危機管理や安全保障は不可欠であることは間違いない。欧米には、民主的でリベラルな危機管理、安全保障のアプローチが存在する。筆者が米国コロンビア大学 戦争と平和研究所で師事したロバート・ジャービス教授はきわめてデモクラティックな安全保障研究者、インテリジェンス研究者であり、民主党支持者でもあった。
民主的でリベラルな危機管理のアプローチは存在する。日本国憲法をはじめとする日本の法制度になじむ、日本の歴史や文化になじむ危機管理の在り方を追究することを始めなくてはならない。日本精神、日本主義に立脚したグローバリズムの在り方があらゆる分野で求められているように、危機管理や安全保障の分野でも求められている。
筆者が21年間追い求めてきた日本の新しい「危機管理学」はそのような志に立脚しており、それが形となって実現したのが日本大学危機管理学部の理念でありカリキュラムである。
【参考文献】
福田充(2009)『メディアとテロリズム』(新潮社)
福田充(2010a)『リスク・コミュニケーションとメディア~社会調査論的アプローチ』(北樹出版)
福田充(2010b)『テロとインテリジェンス~覇権国家アメリカのジレンマ』(慶應義塾大学出版会)
福田充編(2012)『大震災とメディア~東日本大震災の教訓』(北樹出版)
福田充編(2016)『危機管理学の構築とレジリエントな大学のための総合的研究』日本大学理事長特別研究報告書
更新:11月22日 00:05