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危機管理学とは何か

2016年12月20日 公開
2024年12月16日 更新

福田充(日本大学危機管理学部教授)

2020年の東京五輪の開催に向けて高まるテロの脅威。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の教訓を生かせ

 今年4月に発生した熊本地震は、関連死を含めて死者100名を超える被害を生んだ。7月にバングラデシュのダッカで発生したイスラム過激派グループによる襲撃テロ事件では、日本人7人が殺害された。北朝鮮は繰り返されるミサイル実験によりその精度を上げ、9月の核実験により核の小型化に成功したともいわれている。本年の日本国内および周辺だけに限定しても、日々多くの「危機」が発生している。

 東京を襲う首都直下型地震や、広範囲に甚大な被害が予測される南海トラフ巨大地震はいつ発生してもおかしくないとされている。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、国際テロリズムの標的として日本でのテロの脅威は大きくなっている。そのような「リスク社会」と呼ばれる現代において、新しい学問として注目されている「危機管理学」とは何か、現代の危機管理をめぐる新たな学問的潮流について考察したい。

 

タブーだった危機管理

 筆者自身が「危機管理学」の研究を始めたきっかけは、生まれ故郷の兵庫県西宮市が被災した1995年の阪神・淡路大震災であった。震災後の被災地に入り調査を実施し、それが災害対策の研究を始めるきっかけとなった。その2カ月後、東京でオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。このときから当時の日本にはまだなかったテロ対策研究を始めた。自然災害でもテロリズムでも、社会を襲う危機に対して幅広く危機管理について研究を始めて21年が過ぎた。

「日本では危機管理が遅れている」という言説がメディア報道やジャーナリズムを賑わせるようになった原因は、1995年に発生したこの2つの危機であった。忘れてはならないのは、それまでメディア報道でも、学校教育の現場においても、「危機管理」や「有事」という概念はタブーであったという事実である。危機管理も有事も、社会を統制するための危険思想というレッテルを貼られた戦後民主主義の言論空間のなかで、それを社会政策として強化することはおろか、議会において議論することも、メディア報道においてその必要性を強く説くことも、大学において研究、教育することもはばかられた時代が戦後長く続いていたのである。その結果、危機管理や安全保障の素養をもつ政治家や官僚はごくわずかとなった。自治体にも企業にも、学校にも病院にもその素養をもつ人材はごく希な存在となってしまった。こうして危機管理や安全保障に弱い日本人と日本国家が構築されたが、それは危機管理や安全保障について研究、教育をしてこなかった大学など教育機関にも責任があることを痛感している。

 先述した阪神・淡路大震災において、事前の防災対策が十分になされ、事後に自衛隊や消防などのファストレスポンダーが大量かつ迅速に被災地に派遣された上で十分な救助・救援活動が展開されていれば、犠牲者の数はもっと減らせたのではないか。地下鉄サリン事件についても、公安などインテリジェンス機関から監視されていたはずのオウム真理教への捜査が的確であれば、あの事件は未然に防げたのではないか。危機管理だけでなく、テロ対策という観点も希薄であった当時の日本においては、この地下鉄サリン事件も当時は「テロリズム」という概念ではまったく議論されなかった。日本の首都・東京の交通機関を化学兵器サリンで狙った、世界で初の無差別化学兵器テロであった地下鉄サリン事件は、世界のテロリズム研究における2大テロ事件として9・11アメリカ同時多発テロ事件と並び称されるにもかかわらず、当時の日本ではテロリズムとも位置付けられていなかったのである(福田、2009)。

 これらの阪神・淡路大震災も地下鉄サリン事件も、危機管理がタブーであった時代の日本社会が生み出した「人災」の側面があったことは否めないであろう。

 

「リスク」も「クライシス」も危機

 危機管理が学問として、日本において「危機管理学」として研究、教育されてこなかったことの弊害は社会の広範囲に浸透している。危機管理の政策や実務に、共通した概念や理論のフレームワークが存在せず、議論も政策も混乱している状態が長いあいだ放置されてきた。

 日本では「リスク(risk)」も「クライシス(crisis)」も「ハザード(hazard)」も「危機」と訳される。リスクとは、危機が発生する可能性のことであり、危機が発生する前の潜在化した状態のことを指す。よって、「リスク・マネジメント(risk management)」とは、危機が発生する前に危機を未然に防いだり、被害を軽減したりするための事前の防災、防犯的対策のことを指す。それに対して、クライシスとは危機が発生した状態のことであり、危機が発生したあとの顕在化した状態のことを指す。よって「クライシス・マネジメント(crisis management)」とは危機が発生したあとの事後対応の危機管理を指す。リスク・コミュニケーションとクライシス・コミュニケーションの区別も同様である。しかしながら、日本ではリスク・マネジメントもクライシス・マネジメントも同様に「危機管理」と訳され、使用される。本来の学術的な研究において厳密に区別されている概念が、日本では曖昧なまま政策や研究で議論される状態が長く続いたため、リスク・マネジメントとクライシス・マネジメントを明確に区別した議論と政策がいまだ根付いていない。

 さらに「安全」の概念の混乱は大きな弊害をもたらした。日本人は「セイフティ(safety)」の概念と、「セキュリティ(security)」の概念の区別が苦手である。あえてわかりやすく説明すると、セイフティとはシステム内のトラブルを回避することに力点が置かれる概念で、セキュリティとはシステム外からの脅威によるトラブルを回避することに力点が置かれた概念である。

 車の運転を例に考えると、安全はこれまでセイフティを中心に考察されてきた。運転手である人と、車という機械のあいだの相互作用である「マン=マシン・インターフェイス(man=machine interface)」としての運転でミスやトラブルが発生しなければ、交通事故は発生しないという論理である。人が交通法規を守って安全運転に心を配り操作ミスをせず、車のシステムにトラブルが発生しなければ、交通事故は発生しないという「ヒューマンエラー(human error)」の論理である。

 これが科学技術を制御する現代社会のセイフティの論理であるが、セイフティを優先し、セキュリティを疎かにした結果が、福島第一原発事故の不幸につながった。かつてスリーマイル島原発事故も、チェルノブイリ原発事故も、日本のJCO臨界事故も、このヒューマンエラーが原因であった。「原子力発電所事故はこのヒューマンエラーを根絶してセイフティを構築すれば発生しない」というかつての原子力ムラの「安全神話」はこうして確立された。しかしながら、福島第一原発事故は想定を超える津波による電源喪失という「想定外」の事態によって引き起こされた(福田編、2012)。津波やミサイル、サイバー攻撃、内部犯によるテロなど、セキュリティの論理に基づいた安全保障、危機管理が原子力政策にも不可欠であり、セイフティとセキュリティの概念の区別の重要性はこうした原発問題にも内在している。危機管理学の構築には、こうした危機管理に関する理論や概念の研究と社会教育が求められている。

 

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著者紹介

福田 充(ふくだ・みつる)

日本大学危機管理学部教授

1969年、兵庫県生まれ。99年、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。コロンビア大学戦争と平和研究所客員研究員、日本大学法学部教授などを経て、2016年4月より現職。

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