
独裁を打倒し、民主主義を実現すれば、自由で安定した社会が約束されるわけではありません。
政治への不信や利害調整による停滞、社会の分断に加え、SNSの普及によるフェイクニュースや陰謀論の拡散など、現代の民主主義はさまざまな課題を抱えています。そうした不満や不安が、強いリーダーを求める動きにつながり、民主主義を内側から揺るがすこともあります。
愛知大学国際コミュニケーション学部准教授の大澤傑氏が、世界各国や日本の事例を踏まえ、民主主義が独裁へと後戻りする可能性と、その脆さを読み解きます。
※本稿は、大澤傑著『独裁者の手口 なぜ権力を握り続けられるのか』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
独裁者を打倒し、仮に民主化したとしても、民主主義にも課題があります。
実際、民主化によって生活が悪化する人や、メディアの自由化に伴う汚職の露呈などによる政治不信、多くの人を体制に包摂することによる利害調整の難しさからくる政治の停滞、そして旧体制で恩恵を受けてきた政治エリートの不満などが生じます。こうした不満が爆発するとき、民主主義は再び独裁へと後戻りすることがあります。
過去を振り返っても、多くの民主主義が5年以内に再び独裁へと後戻りしました。タイで繰り返されるクーデターなども、民主主義によって露見したさまざまな課題に対し、不満をもつ人が現れたことの帰結であると言えます。
とくに近年では、多くの国で民主主義の後退が叫ばれています。感染症や戦争などの社会不安が高まるなかで、民主主義に対して、人びとが不満をもち始めていることに起因します。
また、民主主義を深めるためのグローバル化や多様性の受容などといった政策も、それによってこれまで利益を享受してきた人の権利が阻害される危機感につながっているのです(五十嵐隆幸・大澤傑編『米中対立と国際秩序の行方』)。
デジタル技術革新の影響も大きいと言えます。民主主義だからといって良い結果がもたらされるわけではありませんが、民主主義に含まれる「話し合い」の要素によって、多くの人が納得感を得られるのが民主主義の良さであったとも言えるかもしれません。
しかし、デジタル技術の発達により、本来、深まるはずの自由な議論は、むしろ社会的分断につながっています。その背景には、人びとが特定の言論空間に閉じこもってしまい、少数派の意見であったとしてもその空間の中で声を反響させてしまうエコーチェンバーという現象の影響があります。
また、人びとが自由に情報や言論を発信できるようになった結果として、フェイクニュースや陰謀論も繁茂しています。真実よりも信じたいことを信じるというポスト・トゥルースも広がりつつあります。こうした言論は、開放性を前提とする民主主義だからこそ広がっているとも言え、この点も民主主義の脆さといえるでしょう。また、デジタル技術によって構成される言論が「けんか腰」になりがちであることを指摘する論者もいます(アン・アプルボーム『権威主義の誘惑』)
独裁をめざす者は、こうしたデジタル技術の発展や、グローバル化の課題に目をつけ、排外主義的な言論や、既得権益を攻撃する主張を繰り返し、ポピュリズムをあおることで権力を得ていっているのです。
さらに、ポスト・トゥルースが広がる現代においては、かつてスターリンがメンデルの遺伝学を否定し、自身の思想に沿う科学を採用したように(デイビッド・ギンズバーグ『暴君になる方法』)、専門知の軽視もなされています。独裁を志す者はこうした状況をも利用しています。
「戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり」
『1984』の中で党が掲げているスローガンを無意識に信奉してしまうような状態が、社会不安によって築かれているようです。
こうした時代にあって、閉鎖的な空間であるがゆえに極端な議論が生じにくいこと、強いリーダーシップであることなどを理由に、独裁が求められるのも不思議ではないように思います。
しかし、民主主義は独裁へと至る道を完全に防ぐための仕組みをもっていません。民主主義は、あくまで政治的ライバルを敵ではなく、競争相手と捉える相互的寛容と、法律上可能であっても、自由と平等の規範に反することはしないという自制心によって維持されます(スティーブン・レビツキー/ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方』)。
米国ではトランプによる強権的な相互的寛容と自制心に欠くかのような統治スタイルに注目が集まっています。実際に、民主主義のリーダーでもあったはずの米国の民主主義スコアは急落し、「自由民主主義」から自由の部分が欠落した「選挙民主主義」に格下げされました(V-Dem Institute, DEMOCRACY REPORT 2026)。いまのところは民主主義に分類される米国ですが、今後の変化次第では、それが独裁へと変化する可能性は否定できません。
米国と同様に、日本でも政権を批判する際に「独裁」という用語が使われることがあります。しかし、日米ではその様相が異なります。
かつての日本政治は、自民党一党優位の五五年体制と呼ばれ、そのことが政策論争の少なさや利益誘導型の政治を生んできました。こうした状況を打破するために細川護熙政権が中選挙区制を廃止して小選挙区制と政党助成金を導入します。これにより、政策論議を深めつつ、公認権と政治資金の配分権をもつ党執行部の権限が強まると考えられたためで
す(待鳥聡史『政治改革再考』)。
その後、自民党が政権に復帰し、官僚主導から政治主導への転換をめざして首相のリーダーシップ強化が進みます。この傾向は民主党政権でも同様でした。再び自民党が政権に返り咲いてからも内閣人事局の設置などがなされています。
その結果、日本ではかつてのように「決められない政治」と呼ばれることは少なくなった代わりに、現在では「決めすぎる政治」と呼ばれるような状況も生まれています。迅速な意思決定を歓迎する人がいる反面、議論が不十分なまま政策が決まってしまっているのではないかと懸念を表明する人がいるのです。
ここまで論じてきたとおり、強いリーダーシップと自由はトレードオフの関係にあります。一連の経緯を見ても、過去と比べて現代における日本の首相が強く見えるのは、これまで生じてきた政治的停滞を打破するための取り組みの積み重ねによるものです。そして、それはその時々の政治課題に対して有権者が投票した結果とも言えなくはありませ
ん。
もちろん、民主主義を制度として捉えるかや、理念として捉えるかに関する論争はあるものの、日本は世界的に見れば安定した民主主義国家です。
しかしながら、民主主義には独裁に至る道を完全に予防する方法がない以上、強いリーダーへの希求が、時に独裁への道に至る可能性があることは(理論的には)否定できないのです。
更新:10月14日 00:05