2026年08月14日 公開

10代・20代の参加者が集まり、『Voice』2026年 5月号に掲載の松原仁・京都橘大学工学部教授による論考「AI時代、有限から無限に移行するか」を題材にした読書会を開催しました。
Y:皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。インターン生のYと申します。現在、公共政策大学院の修士2年生で、本日はインターン生のOさんとともに読書会の進行を担当させていただきます。
O:同じくインターン生のOです。文学部4年生です。本日はよろしくお願いいたします。
SK:お誘いをいただき、参加しましたSKです。私は今年3月に高校を卒業し、現在は秋から海外の大学へ進学するための準備をしています。
SO:Yさんと同じ公共政策大学院で修士2年生のSOです。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
Y:それでは早速ですが私より、今回の読書会で取り上げる『Voice』2026年5月号に掲載された、京都橘大学工学部教授・松原仁先生の「AI時代、有限から無限に移行するか」の概要をご紹介します。
この記事では、生成AIの発展によって「時間」が無限になるのではなく、むしろ時間の使われ方が不均質になり、その密度の差が拡大していることが論じられています。AIは人間がこれまで時間をかけて行なってきた知的作業の一部を、並走しながら肩代わりするようになり、人間の思考時間の構造そのものにも介入し始めています。同じ物理的な時間のなかで、人間が遂行できる認知的・知的活動は大きく増えつつありますが、それは私たちの働き方や学び方にどのような影響を及ぼすのか。そしてAI時代においては、「何を速くし、何を遅く保ち、何に時間を使うのか」が問われている、という内容であると私は理解しました。
この記事の内容をふまえ、本日は三つの論点を用意しました。それぞれについて、皆さんと意見を交わしていきたいと思います。まず一つ目の論点は、生成AIがもたらした変化について、私たち大学生・大学院生にとってもっとも身近なテーマである「高等教育」という観点から考えてみたいと思います。
実際のところ、皆さんは普段どれくらいAIを活用していますか。大学生や大学院生にとっては、すでに身近な存在になっていると思いますが、秋から海外の大学へ進学予定のSKさんも、入学準備にAIを活用されていますか。
SK:ここ1年くらいは、毎日使っていますね。もちろん、大学への入学準備にも活用しています。ただ、AIが示す情報は古かったり、誤っていたりすることもあります。たとえば海外大学の学費は毎年変わることがありますが、そうした最新の情報に対応できていない場合がありました。そういうときは、大学の公式ホームページを直接確認するようにしています。
Y:ありがとうございます。私は現在修士2年生ですが、学部1年生の頃はAIをまったく使っていませんでしたので、ここ数年のあいだでも時代の変化を強く感じます(笑)。いまでは、多くの大学生や大学院生が、授業内容の理解やレポート、課題の作成などにAIを活用しているのではないでしょうか。こうした変化は、私たちの「学び」を効率化したと言えるのか、それとも深い理解を伴わない学びへと変えてしまったのか。さらに言えば高等教育の本質とは何なのかという点について、皆さんと議論できればと考えていました。
O:私は、AIに代替されても問題のない部分を一つひとつ取り払っていったときに最後に残るものこそ、高等教育の本質なのではないかと考えています。そこで、現時点でAIが教育や学術の分野で十分に担えていないことは何かを考えて、二つのことが思い浮かびました。
一つ目は、AIはあくまでも言語モデルである以上、与えられた情報の範囲内でしか回答できないという点です。たとえば、選択肢AとBが提示された場合、専門性の高い人間であれば、それらとは異なる、より優れたCという答えを導き出すことができます。しかしAIは、基本的にはAかBの枠組みのなかで回答してしまいます。
二つ目は、物事の重要度や濃淡を見えにくくしてしまう点です。たとえば、ある出来事の要因をAIに尋ねると、多くの要素を挙げてくれます。しかし、それぞれの重要性や比重を十分に考慮することなく、横並びに列挙してしまう傾向があります。
以上をふまえると、現段階で人間がAIよりも得意としているのは、より大きな知識体系のなかでパターン認識を行ない、それぞれの関係性をふまえながら最適な答えを見出すことではないでしょうか。もちろん、こうした点についても、今後のAIの進歩によって改善される可能性はあります。
それでも、高等教育において最も重要なのは、価値判断を行なう力や、フレームワーク、つまりは考え方の土台や物事を整理するための枠組みを身につけることだと思います。物事に対する考え方そのものを体系的に学び、その内部にある濃淡や相互の関係性まで理解することこそ、高等教育が果たすべき役割ではないかと考えています。
Y:ありがとうございます。SOさんはいかがでしょうか。
SO:私も大学院の研究で、毎日、ChatGPTにコードを書かせています。そうした日々のなかで最近考えているのは、「問う力」の教育がますます重要になるのではないか、ということです。
現時点では、人間がプロンプトを書き、それに対してAIが答えを返すわけですから、出発点となる人間の「問い」が非常に重要です。また、研究を「仮説を立てる段階」と「仮説を実証する段階」に分けて考えると、後者はAIが非常に得意です。一方で、前者の仮説を立てることについては、人間自身が学問や物事に対して好奇心をもっているからこそ可能になるのではないでしょうか。
先ほどOさんがおっしゃったことにも関連しますが、研究史を概観したうえで、「この研究にはまだ足りない点がある」「ここが面白い」と感じ、自分なりの問いを立てること。それこそが、いま高等教育で求められている力なのだと思います。
ただ、その力は自然に身につくものではありません。教育機関のなかで意識的に育てていく必要があるでしょう。最近、大学ではAIを活用してリサーチクエスチョンを考える授業もありますが、そうした教員側の工夫も、これからはますます求められるのではないかと思います。
Y:「問う力」という言葉は印象的ですね。私も、特定の箇所を「面白い」と感じて問いを立てることは、人間にしかできない営みなのではないかと考えていました。そう考えると、「面白がる力」こそ、人間らしさの本質なのかもしれません。SKさんはいかがでしょうか。
SK:私はまだ大学には通っていないので詳しいことは分かりませんが、友人の多くはレポート作成や授業内容の要約などで、日常的にChatGPTを使っているようです。やはりAIがなかった時代の学生といまの学生では、学んでいる内容や学び方そのものが変わってきているのだろうと感じます。
それが良いことなのか悪いことなのか、私にはまだ分かりません。でも、パソコンが登場してこれだけ普及したように、AIが「当たり前」になる時代は確実に来るでしょう。そう考えると、学生がAIを使うこと自体は当然ですし、決して悪いことではないのかなと思います。
Y:ちなみに、SKさん以外の皆さんは、大学生時代にAIが普及し始めた世代だと思いますが、どのタイミングから使い始めましたか。
SO:学部3年生のころから少しずつ使われ始めましたが、研究やレポート作成で本格的に活用するようになったのは、昨年、大学院に進学してからですね。
O:僕はいま学部4年生ですが、1年生の春学期に担当の英語教員が、じつは「生成AIを使いこなせるようになろう」という方針だったんです。その授業で訓練した結果、自然と使えるようになりました。
ただ、僕自身、当初はレポート作成にAIを使うことには抵抗があり、できるだけ使わないようにしていました。それでも、使い始めるようになったのは、昨年くらいからでしょうか。資料を集める際に、日本語や英語の検索だけでは見つけられない文献まで提示してくれるのは非常に助かりますし、「どのような論点を立てるべきか」といった壁打ちの相手としても有用だと感じるようになり、いまでは頻繁に活用していますね。
Y:SOさんが私の一つ下、Oさんがさらにその一つ下の世代ですが、私もお二人とほぼ同じタイミングでAIを使い始めたことが分かりました。やはり私たちは、本当に過渡期を生きている世代なのだと思います。
こうした変化がプラスに働くのか、それともマイナスに働くのかは、まだ誰にも分かりません。しかし、SKさんがおっしゃったように、AIが社会の標準になっていくことは間違いないでしょう。その過程では、体系的な学びや「問う力」の重要性は、これまで以上に増していくのではないかと思います。
O:それでは、二つ目の論点に移りましょう。AIにできることが増えているなかで、AIが得意なことがある一方、人間だからこそできること、人間が担うべきことは何なのかについて考えてみたいと思います。
とくにYさんは公共政策がご専門で、価値判断が多くの人々に影響を及ぼす分野を学ばれています。一方で、AIを導入すると、「これもAI、あれもAI」というように、なし崩し的に判断を委ねてしまう可能性もあるかもしれません。そうしたなかで、人間が担うべき役割についてはどう考えていますか。
Y:私は将来、国家公務員を志望しているので、国の意思決定にAIをどこまで関与させるべきかという議論には強い関心があります。たとえば、国会は最終的には議員による表決で意思決定が行なわれますが、行政の担当者がAIの提案を下敷きにして政策を立案するようになれば、それはAIが意思決定に一定程度関与しているとも言えます。どこまでをAIの関与とみなすのか、その線引きを厳密に行なうことは、実際には難しいのではないでしょうか。
O:AIを活用することが当たり前になった以上、その提案にどれだけ人間自身の意思や判断が反映されているのかという問いは、これからますます重要になっていくのかもしれません。
SO:Yさんのお話を聞きながら、私はあえて少し違う視点から考えました。たしかに、アイデアを練ったり、リサーチを進めたりする場面では、AIと人間は互いを補完し合える存在だと思います。一方で、官公庁が企業や団体と契約を結ぶような場面では、その契約の責任を負い、矢面に立つのは最終的には人間です。裏を返せば、そうした責任までAIに委ねることはできないのではないでしょうか。
O:なるほど。つまり、最終的な取捨選択や責任、さらにはセキュリティの担保といった部分は人間に帰属するものであり、とりわけ交渉の場では、人間にしか果たせない役割が残るということですね。
SO:そう思います。ただ、これはホワイトカラーの仕事を前提とした話で、ブルーカラーの仕事については違う側面があるかもしれません。SKさんのご意見も伺いたいです。
SK:そうですね。最終的な意思決定や交渉には人間が必要だという点では、お二人と同じ考えです。「これに決める」という場面では、人間同士の信頼関係や温かさが重要になってくると思います。
いまSOさんに問題提起いただいたブルーカラーの仕事という点で言うと、私はイベントスタッフのアルバイトをしているのですが、つい2日前もMUFGスタジアム(国立競技場)で催されたスポーツの試合の運営に携わりました。その経験から感じたのは、現場のスタッフがすべてロボットに置き換わることはないだろう、ということでした。人は、人の温かさに触れたり、笑顔で声をかけてもらったりするときに心を動かされます。そうした働きかけは、感情を持たないロボットには難しいのではないでしょうか。
これは、ペットの存在にも少し似ている気がします。人間は長い歴史のなかで、犬や猫と共存し、彼らの感情を読み取りながら関係を築いてきました。これからも、人はペットを大切にし続けるでしょう。そう考えると、お店の店員さんをはじめ、人と人とが直接関わる仕事までAIに完全に置き換えられることはないのではないかと思います。
O:最近では、目的だけを与えると自律的に考え、判断し、行動するAIエージェントが登場していて、それを応用したロボットの開発も進んでいます。それでも、すべての店員さんがロボットに置き換わってほしいとは、私も思いませんね。
O:ここまでの議論をまとめると、人と人とが関わる場面では、人間の役割は確実に残るということになりそうですね。そこで、もう一つ皆さんにお聞きしたいのが、本記事でも指摘されていた、AIの導入によって「認知負荷」が高まっているという問題です。
とくに大学生活の途中でAIが普及したYさんやSKさんは、そのような実感はあるでしょうか。文献を調べたり研究テーマを決めたりする時間は短縮された一方で、AIが提示した情報の真偽を見極めるなど、新たな負担が増えているでしょうか。
Y:認知負荷が高まったというよりも、頭の使い方そのものが変わったという感覚がありますね。学部生のころは、自分で論文を検索して図書館へ行き、論文を読み込み、必要な箇所を抜き出すという作業を、すべて自分で行なっていました。でもいまでは、その多くをAIが担ってくれます。その代わり、「この論文は本当に存在するのか」「引用されている内容は正しいのか」といったファクトチェックを自分で行なうようになりました。
その作業をしていて思うのは、自分自身が、少し「スカスカ」になっているのではないか、ということです。時間をかけて自分で本や論文を探すほうが、結果的には自分の知識や経験として蓄積されていたのではないか、と感じることがあるんです。
O:それはすごく共感できますね...。
SO:私もよくわかります。ですから最近は、まずは自分で論文にざっと目を通してからAIに要約させるようにしています。そうすると、AIがまとめた内容に対しての理解も深まるので。もっとも、AIを使うようになる前も、論文のアブストラクトを読んでから本文の冒頭や必要な箇所を確認するという読み方をしていましたから、そう考えると、作業の流れ自体はそれほど大きく変わっていないのかもしれません。
O:冒頭でも、AIは情報の濃淡を見えにくくしてしまうという話をしました。実際にAIへ要約を依頼すると、内容を項目ごとに整理して並べてくれる一方で、本当に重要な論点が薄く要約されてしまうことがあると感じています。そのため私は、要約にはあまり頼らないようにしていて、日本語の文献であれば自分で読み、英語の文献であれば対訳してもらう程度にとどめています。
ただ、これは私たちの世代が、自分で文献を探し、重要なポイントを見つけてレポートを書くという経験を積んできたからこその感覚なのかもしれません。高校時代にAIが普及したSKさんの場合は、AIが出力した情報にどれくらい信頼を置いていますか。
SK:調べものをするときは、まず情報源を確認して、それが信頼できるものかどうかを判断しています。AIにも、ChatGPTのようにインターネット上の情報を参照するものと、NotebookLMのように、自分で資料をアップロードしてその内容に基づいて回答を得るものがあります。
前者の場合は、自分で情報源をファクトチェックしないと誤っていることも少なくありません。一方で、NotebookLMは自分でアップロードした資料だけをもとに回答してくれるので、その資料自体が正しいという前提に立てば、追加の確認作業はそれほど必要ありません。ただ、コーディングのようにAIが非常に得意な分野については、AIが出力した内容を基本的には信頼していますね。
O:いまのお話を聞いていて思ったのですが、これからはインターネット上に公開されている情報の比重がますます大きくなっていくのではないでしょうか。たとえば、ChatGPTは、国立国会図書館デジタルコレクションや紙の書籍そのものに収録されている情報へ自由にアクセスできるわけではありません。そのため、そうした情報の存在感は相対的に低くなっていくような気がしています。
一方で、NotebookLMは、自分がアップロードした資料の正確性は担保されるものの、その周辺知識まで自動的に補ってくれるわけではありません。そうした特性を理解したうえで使い分けなければならないという意味では、AIは単純に人間の負担を減らすだけではなく、別の種類の認知負荷を生み出しているとも言えるのかもしれません。
Y:それでは最後の論点です。AIによる効率化が進み、社会全体で期待されるスピードや生産性の水準が高まるなかで、私たちはどのような「人間的な時間の使い方」を大切にすべきなのでしょうか。
私自身は、「遠回りすることを恐れない」ことが大事なのではないかと考えています。先ほど、AIが提示した文献情報をファクトチェックしているという話をしましたが、「もっとゆっくりでいい」という空気が社会全体に広がるといいなと思うんです。SKさんはいかがでしょうか。
SK:私も、同年代にはどこか生き急いでいるような雰囲気を強く感じています。大人の方からも、「失敗や計画変更といった遠回りを、恥ずかしいことのように捉える風潮が強まっている」と言われたことがあります。
SNSの普及によって、メッセージのやり取りもどんどん速くなり、「効率」や「速さ」が社会全体の価値観になっているのではないでしょうか。だからこそ、もう少し立ち止まって考えたり、ゆっくり休んだりする時間があったほうが、暮らしや人間関係はもっと豊かになるのではないかと思います。
SO:私も全面的に同意します。昨年、半年ほどスイスへ留学したのですが、SNSから少し距離を置き、アルプスの大自然のなかでゆったり過ごした時間は、人間として大切なものを取り戻す経験だったように感じています。
そのうえで、Oさんや公務員を志望しているYさんにお聞きしたいのですが、AIによって時間の濃度が変わっていく社会では、福祉国家として賃金を保障するだけでは、人間的な生活を支えることが難しくなるのではないでしょうか。その場合、国や公共はどのような役割を果たすべきだと考えますか。
O:私自身も、「もっとゆっくりする」という考え方には賛成です。ただ現状では、社会全体が「同じ船」から降りられなくなっているように感じます。教育でも就職でも競争が当たり前になっていて、その価値観から抜け出せなくなっている。だからこそ、私はもっと人文学が重視されてほしいと思っているんです。
昨日も寮のお風呂で友人とそんな話をしていたのですが、人文学はよく「役に立たない」と言われます。しかし、人間としての文化的な経験や感性を育み、人生に娯楽や豊かさをもたらしてくれるものでもあります。うまくまとまりませんが、もっと文化的な生活が重視される社会になってほしいですね。
技術が発展すれば生活は豊かになる、という未来像は、近年少しずつ揺らいできています。だからこそ、人間そのものについてもっと考える必要があるのではないでしょうか。お金のことだけを考えて時間を切り売りするのではなく、「豊かさ」とは何かという価値観そのものを、社会全体で見直していく必要があると思います。
Y:「人生100年時代」とよく言われますよね。でも、長く生きることだけが「理想」なのでしょうか。極端な話ですが、楽しく生きられるのであれば、人生は短くてもいいのではないか、とさえ思うことがあります。
というのも、高校時代の同級生に、大学卒業後も定職には就かず、半年働いてお金を貯めたら半年海外で過ごし、また半年働いて、今度は宮古島へ行く、といった暮らし方をしている人がいるんです。また、別の友人は新卒で地域おこし協力隊に入り、この春から山形へ移住する予定です。現在の社会では、こうした生き方は「枠から外れている」と受け止められるかもしれません。でも、国の側から「こうした選択肢も一つの豊かな生き方だ」と積極的に発信すれば、社会の受け止め方も変わっていくのではないでしょうか。
もちろん、半年働いて半年海外で暮らすような生活を支えるためには、社会保障制度などの整備も必要になるでしょう。それでも、国として後押しする価値はあるように思うんです。たしかに、経済を成長させ、再分配のための財源を確保することは重要ですから、数字を追い求めることも必要でしょう。でも、「楽しく生きていたら、結果として経済も成長していた」くらいの社会のほうが、人間にとっては幸せなのではないでしょうか。少しまとまりませんが、そんなことを考えています。
それから、これは私の趣味の話ですが、私は鉄道が大好きで、とくに各駅停車での旅が好きなんです。新幹線で一気に移動するのではなく、一日かけて関西へ向かうような時間の使い方もあっていい。そうした「ゆっくり移動すること」そのものを楽しめる社会を後押しする政策も、分野は限られるかもしれませんが、国にはまだできることがあるのではないかと思います。
SO:たしかに、AIだけでなく、交通の発達も時間の濃度を変えていると言えますよね。そう考えると、交通政策や都市政策といった観点からも、人間らしい生活を支えるための政策を考えることができるのかもしれません。
Y:本日は、さまざまな視点から貴重なご意見をいただき、本当にありがとうございました!
更新:08月15日 00:05