2026年07月21日 公開
2026年07月21日 更新
「多様な正義」が徹底して貫かれ、笑いや遊びが衰弱し、言葉狩りによる他者否定がエスカレートしていく時代をどう見るべきなのでしょうか。日本思想史研究者の先崎彰容さんによる「秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会を、3回にわたってお届けします。(構成:中嶋 愛)
【為末】批評家のテリー・イーグルトンの『マクベス』論では、魔女というトリックスターのような存在が、既存の秩序やそれを信じている人を嘲笑い徹底的に否定していくと、虚無に陥っていくというお話でした。それはよくわかる気がしますが、そこには何段階かステップがあるように思います。
私は「遊び」に関心があって、これが一つのステップである気がするのです。真面目と不真面目の間には、たとえば笑いで文脈を変えるようなことってありますよね。虚無まで至る前に。
【先崎】そうですね。さきほど折口信夫の藝能発生史の話をしましたが、芸能というのは、まさに「遊び」です。昔から戦いで相手を打ち負かす場面を戯画化したり、歌舞にして酒を飲みながら興じたりするという遊びがあり、その一部が芸能として、日常の状態を壊す機能をもちました。イーグルトンは日常を壊すという機能を徹底的に突き詰めると、虚無に至ると考えたわけです。
為末さんのおっしゃるとおり、実際はその間に幾つかのグラデーションがあります。ただ、現代の社会は、この遊びの部分がかなり失われている気がします。たとえば、各種のコンプライアンスを含め、多様な正義が貫かれることで、逆に生きづらい社会になっているようにも思います。グレーゾーンがなくて、黒か白かを迫られる。そこに遊びはないですよね。
「遊びの不在」ということが最も極端なかたちで出ると、イーグルトンが出してきたような病的な状況に陥るということです。いま社会全体として、ユーモアが欠如しているのかなという感じがしています。
【中嶋】笑いから虚無までの距離が縮まっているという話でいうと、最近はスポーツでもエンタテインメントでも、政治と近くなっていて、うかつにコメントできないような雰囲気があるように思います。
【先崎】言葉を言葉どおりにしか受け止められない社会になっている、と言うこともできますね。言葉の中にあるニュアンスや抑揚や陰影が読み取られなくなっている。かつては言霊のような、直接言葉になっていないものへの感受性も豊かな社会だったのに、いまは「ばか」と言ったら「ばか」としか受けとられない。
友だちに対して「ばかだなあ」と言うとき、それは「親しみ」のようなニュアンスがあったりもするのだけれど、言葉どおりに受け取ると、「人にばかというのはいかがなものか」という、正しいか正しくないかという俎上に乗せらる。僕たちは言葉がものすごくやせ細った時代を生きているのですよ。そういうこともお話しできたらと思って、折口信夫について触れたのです。
【磯野】折口信夫の黒式尉、小癋見、ひょっとこの話とマクベスの話をうかがっていて思ったのは、黒式尉、小癋見、ひょっとこがいる世界とマクベスがいる世界は、対立するような気がします。
いわゆる黒式尉が作る秩序を、ひょっとこが回避するからこそ面白さが出ると思うのですが、そもそも共有されている秩序のようなものがないと、回避するものもないので面白くなくなってしまいますよね。その面白くない社会がマクベスのいる、ひたすら出世を目指すしかない世界なのかなと。
【先崎】おっしゃるとおりですね。折口の文学論とマクベス論は、直接は重ならないのですが、ひょっとこのような存在を許容する社会のほうが、ある種健全に回っているのに対して、そういうものがいないマクベス的な社会は、かなりギスギスしてしまっているということは言えますね。それ以前に、今の社会はそもそも秩序というか、ある種の善悪感みたいなものがうまく機能していないのではないかと思うのです。
夥しい数の各個人の正義感があって、それぞれが、それぞれを追い込むような社会になっている。コロナの時の自粛警察みたいに。社会が安定的に機能していたら、ひょっとこや魔女のような存在が「ケとハレ」を循環させていくこともできるのでしょうが、それがうまく機能していないように思います。
【磯野】わたしは小癋見とひょっとこの話がとても面白いと思いました。高校生くらいの時って、たしかにむすっとしている生徒と、先生の変な似顔絵を描いているような生徒っていましたよね。それは先生という権威が確立しているからこそなのですが、今は先生が生徒を叱るというより、気を遣ったり機嫌をとったりしていますよね。そうなると、小癋見もひょっとこもその地位を失っていく感じがします。
【先崎】そうです。黒式尉としての先生がいるからこそ、小癋見とひょっとこという役割が成立する。それぞれが既存の秩序を刺激し合って、たとえば学校であれば一学年のサイクルの中で死と再生を繰り返して変わっていく。でも今の社会は、そもそも権威自体が壊れているので、それをひっくり返すような行為自体が成り立たないのです。
既存の秩序への刺激が効かなくなると、より強い刺激が求められるようになります。薬が効かなくなってどんどん強い薬を打つようになるようなイメージですね。ひょっとこが「面白い」を通り越してグロテスクな顔になっていく。権威が壊れるということは、そのような一面を持っています。
【磯野】今のお話を聞いていて、高校の頃を思い出していました。私の通っていた高校はそこそこ自由な校風で、上履きぐらいしか決まっていないところだったのですが、それでも権威や秩序はありました。
文化祭だけは生徒が羽目を外すのですが、そこは周りの大人も教員も許容していました。「見て見ぬふりをする」ということが成立していたんです。ある意味で、小癋見とひょっとこが「ハレの時間」には好きにやることを許されていたというか。今同じことをやったら、いろいろなところに通報されて大変でしょうね。お昼休みに買い物に出かけることすらだめだそうです。
【高梨】今回は自分の専門とは全く違う話を聞いて、いろいろ質問したいことがあります。
マクベスという人は、ある意味、キリスト教の正しい教えのようなゆるぎない権威に向かうベクトルを持った人だと思うのですが、魔女にはそういうベクトルはないのか、つまり魔女を魔女たらしめているものは何かということも気になりました。冷笑的なものが行き過ぎると虚無に陥るというのがイーグルトンの指摘だったと思いますが、魔女が魔女たる軸みたいなものをもっていれば、一気にそういう方向にいくこともないのではないかと。
それから、折口のいう「神」は、一神教的な神とはかなりイメージが違うと思うのですが、いかがでしょうか。
【先崎】そうですね。まず教科書的に言いますと、最も日本の一番古いところから出てきているのが神で、これが最終的には天皇の権威に結びついていきます。
神が秩序を作る存在になっていくにあたって、日本の場合は、天皇は神話的な力を持つ女性と多様な性的関係を結び、権力者としての力を蓄えていきます。これはよろしくないという考えがのちに中国から入ってきましたが、古代の日本では、神は女性との関係を通じて力を得て秩序をつくっていくのです。
その後、平安時代の『源氏物語』の時代になってくると、精霊と呼ばれる存在が出てきます。この精霊は、神の権威や秩序を乱すような存在です。具体的には、春先に疫病をもたらしたりするのが精霊の仕業とされました。天皇の特別な力が、それを抑えて鎮めていく。その力は民俗学用語では、「ニイヅ」とか「イツ」と言われています。
【高梨】さきほど、絶対的な力を持つ神に対して、二つの対抗の仕方があるというようなご説明があったかと思います。この二つは、そもそも秩序をひっくり返すことは考えていない抵抗の仕方ですね。
【先崎】鋭いご指摘です。恐らく日本の神話というのは基本的に天皇の権力関係について書かれているので、完全にひっくり返すという発想は出てこないかと思います。ただ、ひっくり返さないまでも、さまざまな反抗の仕方がありました。もう一カ所、折口のテキストから引用します。
神武天皇大和入りの初めを伝へる日本紀には、諷歌・倒語を以て、目に見え、見えぬ兇悪を従へられたと言ふ。……また、精霊・兇悪の輩には言語の表面どほりの意義に考えられ、実はその反対の効果の現れるやうに使われたのが倒語であった。
ここで折口が言う「倒語」とは、マクベスの魔女たちが唱える「きれいはきたない、きたないはきれい」と同じです。相手の言葉に足を引っかけるようにして、言っていることを反転させる。それが反抗の色を示すということになる。これも秩序全体を壊すというよりは、秩序に疑いを挟んだり、別の角度から見たりすることを示唆しています。つまり、小癋見とひょっとこの役割ということになります。
【高梨】マクベスの魔女たちは、秩序をよりよいものにしていくために、あえて逆のことを言っている、秩序を体現しているマクベスと、実は共犯関係であるということはないのですか。
【先崎】それは『マクベス』をどう読むかという話にもなりますが、僕が参照していたイーグルトンの見方に寄せると、共犯というよりは対立的な世界だと思います。つまり、「ケとハレ」で刺激を与え合うような世界ではなくて、魔女はマクベスの価値観に対して完全に攪乱を狙っている。
しかも、既存の秩序を壊して新しい秩序を作るための攪乱ではなく、壊すこと自体が目的になっています。ひょっとこのような道化が既存の秩序を笑いによって更新していくのに比べると、より虚無的で破壊的な側面があるかなと思います。
【中嶋】マクベスは魔女たちに煽られて、結局は自滅しますよね。
【先崎】そうです。絶対実現しないと思ってしゃべった言葉がすべて実現して破滅に向かっていく。そこが悲劇のクライマックスなのですが。
マクベスはそもそも安定した出世コースに乗っているのではなく、出世の階段を上りながら、常に疑心暗鬼の連鎖に陥っています。ソビエト時代の全体主義社会のようなものを、ちょっと感じさせるところがありますね。レーニンが亡くなる前に、自分の寝ているベッドの周辺に兵隊を何人も取り巻かせたという話もあります。
誰かが自分を裏切るのではないかという恐怖心に死の前までさらされ続けていた。マクベスがとりつかれていた不安とは、そういうものに近い。マクベスは出世しているはずなのに、常に「不安だ」と口にするのです。
*本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。
更新:07月22日 00:05