2025年08月31日 公開

太平洋戦争で最も激烈な戦いが繰り広げられた硫黄島。米軍は5日で占領する予定だったが、日本軍の地下要塞戦術により36日間の血戦となった。しかし戦前1000人以上が平和に暮らしていた島民は強制疎開となり、80年経った今も故郷に帰れずにいる。米軍ガンカメラには、この「未完の戦争」の象徴となった島の真実が記録されている。藤原耕氏・栗原俊雄氏の共著『米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲』(光文社)より一部を紹介する。

硫黄島に初着陸したB-29 1945年3月2日
本章で取り上げる硫黄島(東京都小笠原村)は、太平洋戦争屈指の激戦地として知られる。なぜ激戦地となったか、振り返ろう。
1941年12月8日、大日本帝国陸軍が、イギリスが支配していたマレー半島のコタバルに上陸し、海軍はハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を襲い、太平洋戦争が始まった。
陸海軍は、緒戦では米英蘭の植民地駐屯軍を破り、フィリピンや東南アジアの各地を占領した。そこで石油などの戦略物資を調達し、長期戦に耐える。それが帝国の戦略であり、実現するかに見えた。だが、国力で圧倒的に勝るアメリカが戦備を整えて攻勢に転じると、帝国陸海軍は各地で劣勢となった。

硫黄島から離陸するノースアメリカンP-51Dムスタング
一つの画期となったのは、マリアナ諸島のサイパンがアメリカに奪取されたことだ。サイパンはもともとスペイン、続いてドイツの植民地だったが、第一次世界大戦の結果、国際連盟によって日本の委任統治領となった。事実上の植民地で、開戦当時は日本人およそ3万人が暮らしていた。
そのサイパンに米軍が上陸したのは1944年6月15日。日本本土の南約2400キロで、米軍の最新鋭爆撃機B-29が日本本土を往復することができる距離であった。ここを占領されると、米軍は日本本土爆撃を繰り返しできることになる。日本側もそのことは分かっていた。
サイパンの陸軍守備隊が米軍を迎え撃った。海軍も、上陸を支援する米艦隊を撃退するための「あ号作戦」を発動した。第2章でみたように空母9隻、航空機500機近くと、帝国海軍史上最大の機動部隊であった。だが最新鋭の正規空母「大鳳」、真珠湾以来歴戦の「武勲艦」だった「翔鶴(しょうかく)」の2隻を撃沈されるなど、惨敗した。サイパンの日本軍守備隊は孤立し、米軍が7月7日に占領。B-29の基地として稼働することになった。
のちに日本本土を焼け野原にするB-29だが、新鋭機だけに故障の可能性があった。日本本土爆撃の際、迎撃されて被弾することもあった。B-29には護衛の戦闘機をつける必要があった。しかし戦闘機は航続距離が短く、サイパンから飛び立つ作戦には同行できなかった。
硫黄島は、東京の南およそ1250キロで、マリアナ諸島と日本本土の中間地点に位置していた。日本軍の迎撃で損傷したり、故障したりしたB-29が不時着する場所としてうってつけであった。また、米軍は沖縄本島上陸も計画し、日本本土上陸も視野に入れていた。それを円滑に行なうためにも硫黄島を占領する必要があった。
硫黄島は米軍にとっては是が非でも手に入れたい場所であり、日本軍としては何としても守るべき場所であった。硫黄島には海軍の滑走路があった。マリアナ沖海戦で機動部隊が壊滅した後、「不沈空母」の役割が期待された。さらに、マリアナから日本本土爆撃に向かうB-29を途中で迎撃できる。沖縄方面をうかがう米軍を牽制することもできる。

P-51Dムスタングの機銃を整備する整備兵。
日本は硫黄島の守備を強化した。1944年5月、大本営は硫黄島守備のために第109師団を創設し、栗林忠道(くりばやしただみち)・陸軍中将が師団長に就任し、6月10日に渡島した。さらに小笠原諸島全体を守るべく新設された「小笠原兵団」の兵団長に就いた。
硫黄島は小笠原諸島の南端近くに位置する。マリアナ諸島が米軍に占領された後、小笠原諸島の戦略的価値はさらに増した。同諸島全体を指揮するには、通信や補給の中枢である父島に司令部を置くのが妥当、という意見があった。父島は東京都心の南約1000キロで、硫黄島より本土に近い。
栗林は敵に近い硫黄島に渡って指揮を執ることを決めた。「『小笠原諸島中、硫黄島には最良の飛行場があり、最も重要な戦略的価値を有する。敵の攻撃目標も硫黄島であろう』という確信に基づき、指揮官として率先、戦場の焦点に立とうとする責任感から司令部を同島に設定した」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈2〉ペリリュー・アンガウル・硫黄島』朝雲新聞社)のだ。
日本軍の島しょ戦の基本は、上陸してくる敵を水際で叩くことだった。兵力で勝る敵の上陸を許したら、押し返すことは困難だ。ただ敵はすべての兵力を一度に上陸させることはできず、分散して上陸させることになる。その敵を守備隊全体が迎え撃つ。いわば「こちらの全体をもって、敵の部分を叩く」という戦術であった。
しかし、この戦術は通用しないことが明らかになっていた。米軍は上陸前に苛烈な砲爆撃で日本軍陣地を破壊してしまうからだ。栗林はその戦訓を生かして、「水際撃滅作戦」だけでなく「縦深配備の防御構想」、つまりある程度の敵上陸を前提として後方の陣地を整備、強化する戦術を取り入れた。

P-51Dムスタングのエンジンを整備する整備兵。精密な液冷エンジンを砂塵の多い硫黄島で整備するのは大変だったことだろう。
さらに画期的だったのは、総延長18キロに及ぶ地下壕を築いたことだ。米軍は1945年2月19日、島の南端にある摺鉢山(すりばちやま)のふもとの海岸に上陸した。5日程度で全島を占領するつもりだった。前提は、上陸前の砲爆撃で日本軍守備隊に大打撃を与えていることだった。だが、守備隊は地下壕で砲爆撃をしのいでいた。米軍は上陸したものの、狭い海岸で足を取られるうちに守備隊の集中砲火を受け、大損害をこうむった。
兵力で圧倒的に勝る米軍は、それでも陣地を拡大させていったが代償は大きかった。ここでも地下壕がかぎとなった。米軍が日本軍のある壕を攻撃し、沈黙させたとする。さらに前進しようとする米兵に、日本軍守備隊は背後から襲いかかった。
P-51Dムスタングへのナパーム弾の取り付け作業。
さて硫黄島の戦いは、もともと戦史に関心のある人には広く知られていた。また2006年、クリント・イーストウッド監督による米映画2部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』がヒットしたことから、一般にも関心が広まった。
その2部作ではほとんど触れられておらず、戦史ファンにもさほど知られていないことがある。それは、硫黄島には戦前1000人以上が豊かに平和に暮らしていたという事実だ。筆者は島で生まれた島民1世や子ども世代の2世への取材を続けている。その証言によれば、島の主産業は、野菜や果物、医療用のコカイン栽培などの農業だった。海の幸にも恵まれた。牧場もあった。水田はなく米は取れなかったが、内地からの連絡船で運ばれてきた。スポーツが盛んで、野球やテニス、相撲が人気だった。豊かな暮らしぶりを伝える写真が多数残っている。
真水の水源はなかった。それでも元島民らは「水には困らなかった」と口をそろえる。雨水をためることで十分にまかなえたのだ。だが、その島に2万人もの兵士が移ってきたことで、深刻な水不足となった。
近い将来に米軍の上陸が確実視されていた1944年7月、硫黄島民は3度に分けて強制疎開となった。ただ、原則として16歳以上の健康な男性は島に残り、軍に協力するように求められた。103人が残って設営や炊事、道案内、伝令などに従事したが、地上戦に巻き込まれ、82人が亡くなったとされる。
戦後は米軍が占領し、1968年に日本に返還された。その後は全島が自衛隊の基地となり、元島民は希望しても帰島は許されていない。戦没者の遺族や生還した元兵士らの墓参も自由にはできない状況が続いている。

霧により飛行場を視認できず、やむなく硫黄島付近に不時着水したB-29、右奥に見えるのは摺鉢山。
米軍の侵攻が進み、日本軍は島の北端にあった司令部に追い詰められた。栗林は3月17日、本土の大本営に向けて決別電報を発した。
「戦局最後の関頭に直面せり 敵来攻以来 麾下(きか)将兵の敢闘は真に鬼神を哭(なか)しむるものあり 特に想像を越えたる量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し 宛然(えんぜん)徒手空拳を以て 克(よ)く健闘を続けたるは 小職自ら聊(いささ)か悦びとする所なり(後略)」
米軍は想像以上の圧倒的な戦力で攻めてきた。栗林率いる守備隊はその米軍に比べれば「徒手空拳」、つまり「手に何も持っていない」状態だった。それでも将兵たちはよく戦った。できることはやった、という充実感がにじむ。日本軍の組織的戦闘は同月26日に終わった。米軍が想定した5日どころか、36日にわたり戦ったことになる。
日本軍約2万1900人が戦死した(厚生労働省の推計)。生き残ったのはおよそ1000人。つまり95%が戦死した。一方の米軍の死者は6821人、戦傷者は2万1865人で、死傷者数は日本軍より多かった。戦力差からすれば、日本軍守備隊の奇跡的な善戦といえる。

1945年4月16日、硫黄島に不時着したB-29。
戦闘終結後、硫黄島は米軍に占領された。そのままアメリカの施政下となり、父島などとともに1968年に日本に返還された。父島などへは島民が帰還できた。だが、硫黄島はそのまま全島が自衛隊の基地となり、島民の帰還は許されなかった。「戦後80年」の今年になっても、戦時下の強制疎開が続いている。世界的に見て異常な事態だ。
政府は硫黄島での遺骨収容を続けている。戦死者のうち、1万体以上が未収容だ。筆者はこれまで5回、渡島している。2012年7月には、現役の新聞記者として初めて遺骨収容団に参加した。比喩でなく、文字通り数え切れないくらい多くの遺骨を掘り起こした。頭蓋骨や大腿骨(だいたいこつ)など、しっかりした形で見つかることもあるが、粉々になってしまった遺骨や、きな粉のような粒になって、土と一体になってしまっているものも膨大に見つかった。
筆者は20年以上、遺骨収容や民間人空襲被害者への補償問題など、戦争による負の遺産の取材を続けている。その中で痛感したのは「戦闘が終わっても戦争被害は終わらない。国際法上の戦争が終わったとしても、広義の戦争は終わっていない」ということだ。
おそらく、残る1万体がすべて帰ることはない。つまり遺骨は郷里に帰れず、元島民は郷里に戻れない。そんな硫黄島は、「未完の戦争」の象徴である。

1945年3月10日の東京大空襲に参加し、エンジン2基を損傷。硫黄島に胴体着陸したB-29とその乗組員たち。
更新:09月07日 00:05