2025年08月29日 公開

依然として手つかずの総力安全保障の議論。その重要性については、先の大戦での敗戦、そして戦後の日本の歩みを振り返ればよくわかる。東アジアの緊張が高まるいま、問われることとは。前・後編にわけて解説する。
※本稿は前後編の前編です。『Voice』2024年9月号より抜粋・編集した内容をお届けします。
満洲事変、日中戦争、そして太平洋戦争までの15年間で、大日本帝国は坂道を転がり落ちるようにして崩壊した。日本は未曾有の敗戦を経験した。230万人の将兵を失い、80万人の無辜(むこ)の民間人が犠牲となった。東京大空襲、沖縄地上戦、広島及び長崎の原爆投下では、各々10万人近い民間人が命を落とした。国土は文字どおり焦土と化した。何のための戦争だったのか。
19世紀以来、世界は大きく変容した。19世紀は弱肉強食、人種差別、戦争し放題で、暴力が解放された時代だった。産業革命以降、巨大な国力を手にした10カ国程度の先進工業国が、人類の大部分を占めるアジアやアフリカの人びとから誇りと主権を奪い、植民地に貶めた。先進工業国家群は、二度の世界大戦を戦って覇権を求めた。台風の目はつねに、1871年に統一を果たしたドイツであったが、2つの戦争では、数千万人が命を落としている。
第二次世界大戦後から、徐々に人類の理性が目覚め始めた。1945年、米国を中心に起草した国連憲章によって平和が制度化されて、ようやく自衛権行使以外の武力行使が禁じられた。しかし、当時は未だ、人種差別や植民地支配が当然視されていた。20世紀中盤から後半、それを覆したのはアジアやアフリカの民だった。
大日本帝国は開戦当初、数百年に亘り広大なアジアに巣食っていた欧米の植民地勢力を一瞬で崩落させた。戦後、米国は早々にフィリピンを独立させたが、それ以外の欧州勢は、武器をもってアジアの植民地再征服に戻ってきた。
そこで、非植民地運動の嚆矢(こうし)となった聖者ガンジーは、非暴力を貫いて英国王権の軛(くびき)を外した。インドネシアでは、スカルノが懇意だった前田精(ただし)海軍少将の家で、日本が敗戦した直後の1945年8月17日に独立宣言を起草し、その4年後にオランダ軍を敗走させた。
ホーチミンは、300万人の同胞を犠牲にして、宗主国フランスと超大国米国をベトナムからたたき出した。1950年代、そして60年代、多くのアジア、アフリカの国々がこれらの動きに続き、現在国連に加盟する国家の数は、1945年当時の約50から約190へと増えた。
醜い人種差別の思想を叩き潰したのは、アフリカ系米国人の聖者キング牧師だった。彼が率い、彼が命を捧げた公民権運動は、リンカーン大統領による奴隷制廃止以降も根強く残っていた米国の制度的な人種差別に終止符を打った。
人種差別撤廃の動きは地球的規模で野火のように広がった。そしてやがて、南アフリカ共和国では黒人初の大統領であるネルソン・マンデラが、同国のアパルトヘイトを不屈の闘志で引きずり倒した。
20世紀末になると、第二次世界大戦後、共産主義独裁を掲げたソヴィエト連邦が潰れた。労働者の権利回復を唱えたマルクス主義は、スターリン統治下のソ連で過酷な独裁体制に暗転した。個人の自由を圧殺するスターリン式の共産主義独裁は、誕生から70年後に政治体制としての生命力を失い、内側から崩落した。東欧圏の多くの国々が民主主義に向かって舵を切り始めた。
こうして20世紀の世界史を振り返ると、弱肉強食の権力政治、植民地支配、人種差別、独裁政治といった「悪」が次々と否定されていったことがわかる。幾多の動乱を通じて人類が求めてきたのは、個人の尊厳の絶対的平等の下で、一人ひとりが己の良心に立ち返り、自由な意思に基づいて、話し合いによって社会を築くという自由主義的な考え方であった。人間には、そういう力が初めから与えられている。
強いリーダーを選び、弱者を守り、力を合わせて共同体として生き残ろうとする力こそ、人間に与えられた善の力である。人種でも、肌の色でも、イデオロギーでも、軍事力でも、金の力でもない。性善説への信頼こそが人間の共同体を支えている。それが、今世紀初頭までに人類が学んだことである。
20世紀前半の日本は迷走した。日英同盟の力を借りて帝政ロシアの南下を食い止めたまではよかったが、満洲を謀略で割き獲って以降、まるで積み上げた丸太が崩れ落ちるようにして大日本帝国は崩壊した。
残念ながら、東条英機内閣の重光葵(しげみつ・まもる)外相が大東亜会議で掲げた「アジアの解放」という美しい正義は、武力による大東亜共栄圏の構築という野望の前に汚(けが)れて見えた。日中戦争から太平洋戦争までの「大東亜戦争」と呼ばれる戦争は後世、ずるずると深みにはまった「戦略なき戦争」と批判されることになる。
日本の歴史論争に終止符を打ったのは、2015年に閣議決定された安倍晋三総理の戦後70年談話であった。戦後の豊かな社会のみを知る初めての総理だった。
戦争も、独裁も、人種差別も、植民地支配も、みんな「悪」に決まっているではないか――。21世紀の私たちの立ち位置は、そこにある。だからこそ、幾千万の無辜の人びとの命を呑み込んだ20世紀の教訓をふまえて、この自由主義世界を守らなくてはならない。日本はそのリーダーになる。それが安倍総理の答えだった。安倍総理は「価値観の外交」を唱えた初めての総理となった。
79年前、焦土と化した日本の独立後の再生を託されたのは吉田茂総理だった。未だ朝鮮戦争が火を噴いたままの1952年に独立を果たした日本の真横には、すでにソヴィエト連邦、中華人民共和国、北朝鮮という巨大な赤軍ブロックが立ち上がっていた。破壊され尽した日本では、焼け野原で肉親を失った国民が飢えていた。未だ自衛隊は存在しなかった。
この日本の再生と安全保障を、いかに実現すればよいのか。「日米同盟しかないではないか」というのが、吉田の結論だった。米国の占領は寛大であったが、かつて「鬼畜」と呼んだ米国への国民の怒りは収まってはいなかった。
社会党、共産党の革新勢力はもとより、左傾化した知識人やメディアは、スターリンのソヴィエト連邦に憧れた。激しい反発をたった一人で背負って、吉田茂は日米安保条約に署名して、戦後の日米同盟時代を拓いた。そして経済復興と安全保障を両立させた。
その後、岸信介総理が日米安保条約を改定して、日米安保体制をより堅牢なものに変えた。岸信介総理は、同時に国民皆保険に手を付けて、現在の福祉国家実現への道を拓いた。今日の日本を創ったのは、当時、左翼陣営と左傾化したメディアから激しいバッシングを受けたこの二人の総理である。
しかし、その代償は、安全保障面における対米依存だった。マッカーサー元帥率いる連合軍総司令部は、みずから起草した憲法9条2項に明らかなように、日本の戦闘能力、戦争遂行能力のすべてを奪おうとした。
冷戦を予見したジョージ・ケナン国務省政策企画部長の進言で、米国は日本再軍備の許容に舵を切るが、日本の軍備にはつねに米国の厳しい目が光っていた。同時に、ソ連及び中国と連携した日本の革新勢力は、日米同盟廃棄と日本の非武装に徹底的に固執した。社会党の掲げた「非武装中立」がその典型である。
政府は自衛隊を創設し、革新勢力の強い反対を押し切って、徐々に防衛力整備を進めたが、当時の米国にとって日本の価値とは、自衛隊よりも在日米軍基地にあった。朝鮮、台湾、フィリピンといった日本の外縁は、米国が日本の基地を使って守ることとされた。それを明文で規定したのが日米安保条約第6条である。
やがて高度経済成長が波に乗り、福祉国家が実現してくると、不思議な鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の雰囲気が日本を覆った。まるで平和はタダで与えられているかのような錯覚が日本を覆ったのだ。安全保障では100%米国に依存しながら、「経済力で米国との経済戦争に勝つぞ」という、まるで子どもじみた野望が膨れ上がった。夜郎自大(やろうじだい)の「経済大国・日本」である。
1990年のイラクのフセインによるクウェイト侵攻では、米国が同志国を率いてフセインの侵略行為を弾き飛ばした。国連安保理のお墨付きをもらった集団安全保障のための行動である。町内会が総出で暴力団に向き合うような話だ。世界中から大中小の国が集まった。日本は約2兆円の小切手を届けて嘲笑された。「日本のような大国がお金ですか」という目が向けられたのだった。
それからの日本政府の動きは速かった。宮澤喜一政権ではPKO法が制定された。北朝鮮核危機に直面した橋本龍太郎政権、小渕恵三政権では、日米防衛ガイドラインが改定され、重要影響事態法が策定されて、米軍の後方支援が可能となった。
小泉純一郎政権では、9・11米国同時多発テロ後のアフガニスタン戦争で、国連安保理の決議をふまえてNATO軍がアフガニスタンになだれ込んだあと、洋上で活動する同志国海軍に対して、海上自衛隊が長距離の燃料の戦略輸送を買って出た。この長距離洋上輸送作戦の戦略的価値を理解できる政治家は、残念ながら日本には少なかった。そして、安倍晋三政権では、集団的自衛権行使が是認された。
日米同盟は冷戦後、一貫して日米対等化の道を進んできた。今日、台頭する中国の台湾侵攻の暗雲を前に、米国は戦後初めて、日本をNATO同盟国のような真の同盟国として扱い始めた。核兵器保有以外は何でもやって、アジアの平和の維持を助けてほしいというのが、いまの米国の本音である。それを受けて、岸田文雄政権は防衛費の倍増を掲げた。
更新:09月07日 00:05