2025年04月23日 公開

歴史をふりかえれば、政治不信はいつの時代もあった。紀元前6~5世紀の古代ギリシアでは世界ではじめて民主制が完成し、ソクラテスをはじめとする哲学者たちが政治を論じている。古代ギリシア哲学から「政治」の真の問題について東京大学大学院人文社会系研究科教授の納富信留先生に解説して頂く。
※本稿は、『Voice』2024年4月号より抜粋・編集した内容をお届けします。
「政治に失望している。政治家は信用できない。政治が劣化した」
最近しきりに聞かれるこうした不満は、いまに始まったものではない。バブル後も高度成長期も、戦後や戦前の社会でも、ほぼ同じことが語られていた。
また、日本に限った現象でもなく、先進国でも途上国でも、資本主義国でも社会主義国でも、いつもこんな批判や愚痴がこぼされてきた。無論、言論の自由がある下での発言である。
さらに、古代のギリシアやインドや中国でも、政治は乱れに乱れ世も末だと、人びとは嘆き続けていた。人間は進歩していない。そして、過去からそれほど学んでもいない。
翻って考えると、政治家が信頼されている時代、政治に満足していた社会など、かつてあっただろうか。もしあったとして、ファッショやポピュリズムの熱狂だったのかもしれない。それはそれで危険である。
政治に対する批判的な意見や冷静な視線は必要であり、とても大切である。だが、同時に意識しなければならないのは、政治の場で活動する議員は私たち市民が選挙で投票して選んだ代表だということである。
「政治の質が低い」と言い放つことは、それを選んだ社会、私たち自身のレベルが低いと認めることに他ならない。いわば、天に向かって唾を吐くようなものである。
しかし、そうは言っても、ここ十年来の政治状況を見るにつけ、あまりにお粗末で憤まんやる方ない。政治はいつもひどいと言っても、また、その責任はまず私たち自身にあるとは言っても、それでは収まらない怒りが湧き上がる。
自分の顔に降ってくるとわかっていても、それでも天に向かって唾を発したくなる。そうして冷や水を浴びたように反省して、考えていくしかないのだろう。
私はここで、古代ギリシアの哲学に戻って、三つの言葉から現代の状況を反省してみたい。「ロゴス、ディアロゴス、ポリティカ」である。
紀元前六~五世紀のポリス(都市国家)アテナイでは民主制(デーモクラティアー)が完成していたが、まさにその時代に政治を批判的に論じる哲学が生まれていた。
「人間はロゴスを持つ動物である」とは、アリストテレスが『政治学』講義で与えた定義であった。
そこで「ロゴス」つまり「言葉」を持つとは、単に感情や考えを発する能力や、コミュニケーションのツールを手にしていることではない。合理的に考え、論理的に語るという存在の仕方を意味している。
ギリシア語で「ロゴスを与える(ロゴン・ディドナイ)」とは「知っている」という状態の基準である。
ロゴスは物事について「何であるか」の構造や筋道を示すものであり、それが正しく示される場合は本質が明らかになり、真理が開示される。従って、ロゴスを受け取った者も、その対象を「知る」ことになる。
つまり、きちんとロゴスを与えているか、与えることができるかどうかが、その事柄を知っている人と、よくわかっていない人とを分ける基準となるのである。
この「ロゴスを与える」は、日本語では「説明する」に当たる。「説明する」とは、主題となっている事柄について事実を明確に示し、それがなぜ、どうなっているのかを言葉で明瞭に提示することである。
何事につけ、きちんと説明することは人間が人間として生きること、共同体の一員であることの基本であり、それができない者、行なわない者は「ロゴスを持つ」という人間の本質を実現していない。つまり、人間になっていない未熟者である。
「ロゴスを与える」ことは、生まれ持つ能力として誰にでもできることではない。むしろ、長年の教育と習慣によって培っていく人間性の開花であり、その遂行には巧拙の違いがある。
だが、大人は子供たちの見本として、リーダーは社会の代表として、しっかりとその役割を果たさなければならない。それができない者は、人びとを導くには不適格である。
私たちは日本社会で、ロゴスを与える場面に出会わないこと、素振りだけで何の実質もない言葉を聞くことに、あまりに長く慣れてしまっている。
何を尋ねられても同じ言い訳をくり返す様は、ロゴスを持つ動物に相応しくない。それは、単に聞く人びとに不快や虚しさを与えるだけでなく、社会そのものを機能不全で歪んだものにしてしまっている。
つまり、ロゴスを欠いた私たちの社会は不健全で不幸な状態にある。
正しく言葉を語り物事を明らかにすることは、社会の基本である。なぜ言葉が大切なのか。この点では古代ギリシア哲学だけでなく、古代中国哲学も「正しい名前」の重要性を指摘している。
どんな名前や言葉で語ろうが実質は変わりない、などと思ったら社会は終わりである。
むしろ、物事の条理は正しい名前で区別され、その表示での理解が流通することで、社会の正しいあり方が実現する。もしそうなっていなければ、名前を正す必要があり、それが政治の役割である。これが儒教で孔子や荀子が論じた「正名論」である。
昨今の日本で、「責任をとる。職務を全うする。関わりがない」、そんな言葉が正しい意味で用いられているか、大いに疑問である。「安全、平和、豊かさ」、そんな基本語に立ち返り、言葉の使い方を真剣に反省する必要がある。
「ロゴスを与える」ことは何よりも大事な基本だが、それだけでは十分ではない。ロゴスだけでは達せないことが、3つある。
自分の誤りに気づくこと、訂正すること、そして自分を変えることである。そこではロゴスを交わす「ディアロゴス(対話)」が必要となる。
自分ではそれなりに考えて説明したつもりでも、そのロゴスが不十分であること、あるいは誤りであることは珍しくない。自分で理解しているつもりで説明しても、聞いている相手になかなか納得してもらえない、そんなことはしばしばある。
しかし、相手の理解力が足りないなどと決めつけてはならない。相手にわからなかったら、それは説明が十分ではないからであり、さらに理を尽くして説明する必要がある。もしかしたら、その人が納得しないのは説明のどこかにおかしなところがあって、思い違いや誤謬や意図的な隠蔽が含まれるからかもしれない。
そんなときには、もっと説明してほしいという要求は大切なステップとなり、そこでその説明が最終的に正しいのか、あるいは間違っていたかが判明する。
説明をする本人は、だいたい自分ではわかっている気になっていて、あれこれ説明することすら面倒だと思っていることも多い。しかし、じつはその人自身がわかっていなかった、あるいは間違っていたことが判明することも少なくない。
つまり、ロゴスを与えるとは、一人で完結してできることではなく、むしろロゴスを語る相手とのディアロゴスで実現するものなのである。
ディアロゴスは双方向的なロゴスのやり取りであり、説明を聞いた側は質問したり、追加情報を求めたり、あるいは批判したりする。それに応答することで、当初の説明が明瞭になったり、修正されたりする。
それは望ましい進歩である。自分ではわからないこと、気づかないことがある以上、他者に指摘されて考えを改めることには何の失点も恥じるところもない。むしろ、適正な指摘を受けながら何も訂正しないとしたら、それはロゴスへの裏切りである。
訂正することで起こるのは、自分が変わること、つまり変容である。人間は失敗もする未熟な存在である以上、できるだけ善いものに変わることがめざされるべきであろう。
それを実現するのがディアロゴスであり、一人のロゴスでは十分に達成できない思考や推論や判断を、共同で遂行するものである。「対話」の必要性はここにある。
哲学の対話とは違うにしても、政治の場での「論戦」や「討論」を見るにつけ、こういった改善への志向が見られないことに失望する。
他者の正しい指摘を真摯に受け止めそれを取り入れて自分が変わること、それが政治家にも私たち市民の一人ひとりにも必要なのである。
人間の基本としての「ロゴス」、それを共有する「ディアロゴス」という古代ギリシア哲学から、現代の政治に欠けているもの、その根底にある言葉の問題を考えてきた。
ここで改めて焦点となるのは「ポリティカ」、つまり「政治」という言葉である。「政治不信、政治的無関心、政治離れ」といった言葉が聞かれるが、何かおかしくないだろうか。その違和感の原因を探るために、「政治」の元の意味を考察したい。
日本では昔は「まつりごと」という大和言葉が語られてきた。すぐに連想がつくように「祭り」を司どるという為政者の役割を表したものである。
祭りは共同体成立の要であり、神々との関係で人間が幸せな生活を送るための知恵が込められていた。中国では古くから「政事」という語が使われてきたが、「政治」は明治の日本から使われて普及した語である。
それは「ポリティクス」や「ポリティカル」といった西洋語の翻訳であり、1877年に創立された東京大学で文学部の第一科が「史学哲学及政治学科」と呼ばれたことから、「政治学」という学問名が広く定着した。
政治としては、文化や社会の歴史において異なるあり方が展開されたが、人間が共同生活を送る仕組みには普遍性がある。
ギリシア語で「ポリティカ」とは「ポリスに関する事柄」という意味で、「公共の事」とか「共同体に関わる問題」を意味する。西洋ではそれが「政治」の基本的な意味となった。
では、「ポリスに関すること」とは何を意味するのか。
古代ギリシアで「ポリス」とは小さな領域や都市からなる共同体で、規模は数千人から数万人、それぞれのポリスは王制や貴族制や民主制などさまざまな国制をとっていた。
プラトンやアリストテレスは、人間は個人では生きられず、多くの人が集まって共同で生活を営むことで人生の充足が可能になると考えた。つまり、役割を分業して社会をつくらないと、人間は一人では生きていけないということである。
そうして形づくられる共同体は、構成員である市民がそれぞれの仕事をするとはいえ、その共同体の全体を見渡して最善に向けて配慮する人が必要である。それがポリスのことを行なう専門家、つまり「政治家」である。
では、政治を行なうために特別に養成された統治者だけが共同体を配慮すれば良いのかというと、そうではない。統治者が発するメッセージを理解して、ポリスにおける自分の役割を果たす個々の市民も、その限りではポリス全体のことを考えていなければならないからである。
ポリスは、市民一人ひとりが人間性を完成する場である。人間はこのような意味で「ポリス的動物」であり、政治とは一部の人が必要により、仕方なく、あるいは野心によって行なうことではなく、人間である限り私たち一人ひとりのすべてが従事する営みである。
そうだとすると、なぜ先ほどの表現に違和感を抱いたかがわかる。「政治不信」や「政治的無関心」と言うが、政治が自分もその一部である人間共同の営みである以上、それを信じないことは「自己不信」であり、無関心でいるとしたら「自己無関心」と同じである。
また、「政治離れ」と言っても政治から離れて生きることはできず、政治に加わらないという態度は、責任の放棄か、あるいは、意図的であれば反対への強い政治的意思表示であろう。
もし、この結論に納得できない人は、あらためて「政治」とは何かを考えてほしい。
古典期アテナイの政治と言えば、ペルシア戦争を勝利に導いたテミストクレスや全盛期を担ったペリクレスが思い浮かぶ。
どちらも現代では歴史の教科書にも登場する偉人だが、プラトンの対話篇『ゴルギアス』でソクラテスは、彼らが政治家の名前に値しないと批判している。二人はたしかに国を強力にし、経済的繁栄をもたらしたかもしれないが、それで国民が幸せになったとは言えない。
幸せとはそのとき楽しいと感じる気分ではなく、本当にその人自身が善くなったか、優れた生き方をしたかということ以外ではない。彼らはそうした幸せをもたらすどころか、ポリスを国威で傲慢にし、贅沢で堕落させたのではないか。
対照的にソクラテスは、市民一人ひとりと対話を交わして、魂ができるだけ善くなるようにと配慮を促した。もしかしたら自分だけが本当の政治を実践しているのではないか、ソクラテスはそんな逆説的な見方を提起する。
本物の政治が、私たちの生き方を本当に善いもの、幸せにすることであり、見た目の立派さや物質の豊かさや気持ち良さをもたらす営みとは根本的に異なるとすると、政治に必要なのは哲学であろう。
現代の日本で、そう思っている人はほとんどいないように見受けられるが、とりわけ、そう考えている政治家が皆無であることは、政治家を育てて送り出す私たち社会が深く恥ずべきことである。
更新:05月04日 00:05