2025年04月27日 公開
写真:的野弘路
「新しい実在論」の提唱者であるマルクス・ガブリエルは、ヒンドゥ―教の「時間は幻である」という考え方を重要視する。そして、時間とは意識の形象であり、意識は実在する幻想であると説く。
※本稿は、マルクス・ガブリエル著、大野和基インタビュー・編、月谷真紀訳『時間・自己・幻想』から、一部を抜粋・編集したものです。
──(大野)ヒンドゥー教に関心を持っているとおっしゃっていましたが、ヒンドゥー教において特に重視されているのはどのようなことでしょうか。
【ガブリエル】私がヒンドゥー教の中で特に重要視しているのは、生は幻である、特に時間は幻であるという考えです。
私たちは時間の中で生きていますから、時間はきわめてリアルに感じられます。時間は流れていく。どの時点を生きていても、時間は流れています。
時間は川のようなもので、私たちはその中を移動しているように思われます。
一方、時間は空間となんらかの相関があります。どういう相関かは、アインシュタインをもってしてもわかっていません。アインシュタインもヒンドゥー教の時間の問題は解決しませんでした。
アインシュタインは時間変数tが四次元において成立すると言いましたが、これは数学的な結果にすぎません。
アインシュタインは時間がそもそも何であるかを知りません。時間変数tについては何でも知っているけれど、時間については何も知らない。
だから時間の問題を彼は解決していないのです。そして時間が実在することも示していません。時間が実在しているという仮説は、まだ選択肢の一つなのです。
私が関心を持っているのは、この考えの意識に関する部分です。意識は本質的に時間に関わっています。好むと好まざるとにかかわらず、時間とは意識の形象です。
意識が時間を生み出すわけではありません。そうだとすれば意識は時間の前か後に存在することになるからです。
もしAがBを生み出すとしたら、通常この二つは違うものでなくてはなりません。それでは意識がどうやって時間を生み出せるでしょうか。
ですから時間は意識の形象だと私は考えます。意識がなければ時間は存在しません。しかしひとたび意識を持てば、そこには時間があるのです。
また私は、意識は何の理由もなく宇宙に現れたと考えています。自然が意識を生み、その意識の形象が時間です。自然が意識を時間の中で生み出したのではありません。
なぜなら意識以前に時間は存在しないからです。ですから意識以前に時間がどのようであったかを問うことさえも無意味です。時間と意識は同じ形象だからです。そこに外部性はありません。
現実は時間の中にあるように見えますが、それは意識の観点からにすぎません。意識を取り去れば時間はなくなります。
では、人間が生まれる前は時間は存在しなかったのか、と思われた方もいるかもしれませんが、そうではありません。人間以外の動物も意識を持っていると私は思っています。
意識は人間特有のものではありません。時間は自然史の非常に早い時点で誕生した可能性があります。他の惑星にさえあるかもしれません、私たちには知るよしもありませんが。
ウイルスのレベルでも意識はあるかもしれない。最近のパンデミックを改めて見ると、流行の波の盛衰は意識の一つの形ではないかという気がします。
ウイルス一個一個に意識があるとは言いませんが、ウイルスの科単位では意識があるかもしれません。ですからウイルスの攻撃は意識の一つの形なのです。ウイルスの攻撃には確実に知性があると考えます。
【ガブリエル】近著で私は、「意識は客観的に存在する幻想ではないか」と書いています。「意識が存在するという幻想」ではありません。意識は実在します。しかし意識とは何か。それは客観的に存在する幻想です。
先日亡くなったダニエル・デネット(アメリカの哲学者)は意識は存在しないという見方でした。意識の存在は脳が作り出した幻想だと彼は言いました。
私は、「いやいやダン、意識は実在する、ただし実在する幻想なのだ」と言いたいです。
意識とはすべてのものが時間の中にあるという幻想です。しかし意識を取り去れば無時間になります。
私たちは数学と物理学と純粋哲学と、おそらくは瞑想という手段で無時間に到達できます。ですから私たちは無時間に到達できる。時間の中にいてさえ私たちは無時間の痕跡を手にするのです。
信じられませんか? 例えば、私たちが久しぶりに出会った友人と、以前行った会話と継続的な会話をしているとき、私たちの会話は時間を超越しています。
なぜなら私たちの会話は想念の世界で起きているからです。私たちの関係には時間を超越したところがあります。しかし時々は会うわけで、私たちは時間の中で会うのですが、関係そのものは時間を超越しています。
意識は幻想ですが、実在する。客観的に存在している真の幻想なのです。
意識は幻想であることを、ヒンドゥー教徒は完全に正しく理解しているのです。
美術館などに行くと、眠っている人間の上でシヴァ神が踊り、それによって人間に時間の夢を作り出しているという作品を目にします。
ヒンドゥー教徒は正しく理解していると私が思うのは、生が一種の夢であることです。
夢とはもちろん幻想を指します。この生は一種の幻想である。幻想を取り去ったらどうなるか。そのとき真の現実が現れます。幻想を取り除けば、ブラフマーなど本当の神々が現れるのです。
意識と時間という幻想の後ろに、かりそめの形象に身をやつした真の現実が姿を現している。だから真の現実と心の中の現実の二元性はないと私は考えています。
心の中の現実は真の現実の一部です。要するに、シヴァ神は人間の後ろで踊っていますが、シヴァ神の後ろで踊っているのは誰でしょうか。私たちにはわかりません。ヒンドゥー教にも常にもう一つのレイヤーがあります。
【ガブリエル】ヒンドゥー教徒の友人たちと一緒に、ムンバイ近郊にあるエレファンタ島を訪れたことがあります。そこにトリムールティ、三神一体の像がありました。西洋人の目には三位一体のように映ります。
そのときキリスト教徒の哲学者が同行していて、彼が「おや、三位一体だ!」と言いました。するとヒンドゥー教徒の友人たちが、実は壁の後ろに4柱目の神がいるのですよと教えてくれました。
三神は壁から彫り出されているのですが、ヒンドゥー教徒によれば、4柱目の神がまだ壁の中にいるというのです。
それでキリスト教徒の哲学者が「なるほど、4柱いるわけですか」と言いました。4という数字も西洋哲学では重要な数字です。
そうしたらヒンドゥー教徒は「いや、5柱目の神もいますが、その神は完全に目に見えないのです」と言いました。こんなふうに、無限のレイヤーがあるようなのです。
これがヒンドゥー教の本質だと私は思っています。そしてヒンドゥー教徒は無限の運命から逃れたいと願っている。ここからは私は見解を異にします。
問題は涅槃(ニルヴァーナ)とはどのようなものかです。ヒンドゥー教では、涅槃を無限の輪廻転生から脱する方法として想像しています。無限の現実の一部であるのは恐ろしいことだ、ある幻想が別の幻想の中に組み込まれているだけだからだと考えています。
私は本当の解放とは─この点で私はヒンドゥー教よりチベット仏教に考え方が近いのですが─真の現実の無限の多彩さであると考えています。
ヒンドゥー教徒は宇宙論も完璧に理解してきたかもしれません。彼らは宇宙が発生したり消滅したりしているという壮大な宇宙観を持っています。
現代の宇宙論でいうビッグバンとビッグクランチ(宇宙の終焉)ですね。そしてヒンドゥー教徒が宇宙を正しく理解しているかもしれないというのは、彼らが宇宙を心と関連付けてきたからです。
ご承知の通り、仏教は同じ思想体系から発祥しました。ヒンドゥー教のほうが古いだけで、仏教も大きな理論体系の中の一部です。仏教・ヒンドゥー教の理論体系に織り込まれた宇宙論、時間論、存在論は極めて重要なものだといえます。
更新:04月28日 00:05