2026年04月15日 公開

行動遺伝学研究の第一人者である筆者には、社会にはびこる「能力主義」がどのように見えているのか。科学的根拠を用いながら、社会にある本当の問題に目を向ける。
※本稿は、『Voice』2024年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。
2024年の年明けは能登半島地震と終わらなかった2つの戦争という、いずれも生命そのものが不条理に脅かされる報道に、年が明けてもおめでたいと心からは決して言えない新年を迎えた。そのなかで日航機と海保機の羽田空港での大事故は、リアルタイムで見ていて絶望的と思われた大惨事だったにもかかわらず、乗客乗員全員脱出という奇跡のような救出劇となり、深い感動を覚えた(亡くなられた海保機乗組員のご冥福をお祈りする)。
牽強付会と言われるかもしれないが、私はそこに真の「能力主義」の姿を見た。煙と炎が刻々と迫るなかでのCAたちの冷静な判断と指示。CAとして選抜された優秀な人たちが、緊急時のために日頃から頭と体にしみこむほどの訓練を重ね、互いに協力しあいながら、400人近くの人びとをパニックに陥れることなく誘導したその能力は、想像を超える見事さだった。
もし的確な状況判断を下す能力のない人や、動転して自らパニックに陥るような人がCAとしてそこに配置されていたとしたら、あの「奇跡」は成し遂げられず、文字どおりの大惨事になっていただろう。それは誰にでも成しうるものではない。
もちろん乗客の冷静なふるまいや飛行機の設計、空港の救助体制など、数々の条件が関与していたことはいうまでもない。しかしいずれにせよ、あれは「奇跡」なのではなく、周到で適切な能力の選抜と教育が生み出した正しい能力主義の成果であった。
ヒトも生物の一員であるから、常に死と隣り合わせである。その中で少しでも生き延びようと、生命は進化の過程で無数の工夫を積み重ねてきた。ヒトの場合、高度な認知能力、それが生み出した知識とその集積としての文化、それを互いに共有しあうための教育がある。
もとをたどれば「石器」と同じように生き延びるための道具に過ぎなかった「国家」という人工物のおかげで死に追いやられる膨大な人びとがいる一方で、家屋が倒壊し津波に襲われた瀕死の命一つが多数の人たちの協力によって救出される。
そこで働いているのも、「国家」という幻想の下につくり上げられた複雑な知識体系を使う人びとの能力、がれきをかき分け身動きのとれない人を救い出して医療につなげる人びとが使う高い専門性に裏付けられた能力である。その能力の使われ方次第で生死が分かれる。だからこそ、生き延びるためには適切に能力が選抜され育てられ、適切なところに配置されていなければならない。
この世界は解決しなければならない無数の課題で満ち満ちている。誰かが絶対にやらなければ解決できない状況下に陥れば、たまたまそこに居合わせた人が、能力の優劣を問題にする以前に、それをせざるを得ない。
そしてヒトは、発揮されるその能力の優劣さえ問題にしなければ、たいがい何でもすることができる。それはヒトの遺伝子を構成する4種の塩基のA(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)の並び方の99.9%が等しいからだ(書物によっては99%と言ったり99.4%と言ったりすることがあるが、ここではその差異は問題にしない)。
大谷翔平になれる人間は大谷翔平一人しかいないが、棒を振ったりモノを投げたりするだけなら、およそどんな人間でもすることができる。
しかし誰もが大谷翔平になれない理由は、大谷翔平との間に、たった0.1%の差異があるからだ。それは30億ある塩基のなかでは300万カ所におよび、それがたった一つ違っても異なるタンパク質をつくり出す可能性がある。
従って結果的にヒトの遺伝的多様性は膨大で、ヒト一人をつくり上げる遺伝子のセットであるゲノムレベルで見ると、地球がこの宇宙に誕生してから滅亡するまでに存在する古今東西すべてのヒトの遺伝的条件は、一卵性双生児を除いてそれぞれにみな異なり、誰もが独自である。
大谷翔平が大谷翔平にしかなれないように、あなたはあなたにしかなれない。そしてその違いが、炎に包まれた機体のどの扉からなら安全に冷静に人びとを脱出させられるか、パニックに動転した人びとを炎のなかに放りだしてしまうかの判断能力の差となって表れる。
そんなことがほんとうに科学的に言えるのか。たしかに大火災を起こしつつある機内のCAの判断能力に関する遺伝研究など(あるはずも)ない。打つ投げるの二刀流で卓越する遺伝子も見つかったわけではない(これも永久に見つからないだろう)。
しかしこれまでになされた膨大な行動遺伝学の研究成果から、高い確信度をもって、そこには遺伝子が関わっていると言うことができる。それが双生児法、つまり例外的に同一の遺伝的条件を共有するきょうだいである一卵性双生児と、遺伝的には普通のきょうだいと同じく50%の遺伝子を共有しながら、成育環境は一卵性双生児のそれと同等とみなせる二卵性双生児の類似性を比較する方法である。
もし調べたい形質に遺伝の影響があるなら、一卵性双生児の類似性のほうが二卵性双生児よりも高いはずだ。その差が大きければ大きいほど、遺伝の影響力も強いことになる。これを統計学的に分析することで、個人差に及ぼす遺伝による説明率、いわゆる「遺伝率」を、およそいかなる形質についても算出することができる。


その成果はほぼ出尽くしている。2015年に過去4000件近くのあらゆる双生児の類似性のデータを総まとめした論文では、体の大きさや各種の臓器の疾患、細胞内での遺伝子発現の程度など、身体的、病理的、化学的形質などのあらゆる形質に関して、一卵性の類似性は二卵性を上回り、およそ30%から70%の遺伝率を示すことが雄弁に示されている(図1、2)。
そのなかに認知能力や社会性、環境のつくり方のような心理的形質まで同じように含まれている。
ヒトも遺伝子の産物であり、心の働きも遺伝子がつくり出した脳活動など心身の働きであるから、それは当然のことだ。この圧倒的普遍性を見たとき、これまでに調べられていないCAの緊急時の判断能力や野球の才能でも、ほぼ間違いなく、多かれ少なかれ遺伝の影響があると類推できる。
この世の中で解決しなければならない問題に対処するために発揮されるどんな能力についても、遺伝的に有能さの個人差があるはずである。だからその課題解決に対して遺伝的により有能な人が配置されることが望ましいのは言うまでもない。それが私の言う「真の能力主義」である。
新年の日航機事故で発揮されたCAの能力はまさにそれを具現化していたのである(ただし誤解してはいけないのは、だからあのCAの親も遺伝的に判断能力のすぐれたCAの素質をもっているとは限らないということだ。遺伝子は両親から半分ずつランダムに子に受け継がれるので、親と子の遺伝子の組み合わせは異なってくる。
似ているのも遺伝だが、似ていないのも遺伝、要するに親子とはいえ遺伝的にはそれぞれ独自だということである。本稿で「遺伝的」と言ったら、それはその人独自の遺伝的条件が反映しているという意味であり、親子で伝達されているという意味ではないということにつねに注意していただきたい)。

と、ここまで読んだ読者は、少なからぬ戸惑いを覚えたであろう。いや、戸惑わなかったとしたら困る。要するに「あのときのCAは生まれつき優秀だったから助けることができた」と言っているのだ。こんな物言いは、ほとんどの人があからさまには聞いたことがないはず、あるいは心に思っても口にするのが憚られたはずだ。
CAの事例は特殊だというなら、この特集のテーマである「学歴」に置き換えて考えてみよう。これはつまり「高い学歴を得ることができるのは、遺伝的に頭のいい人たちである」「学力の低い人はもともと遺伝的に頭が悪いからだ」と言っているのだ。これを聞けば、心穏やかではあるまい。
だが学力と、その結果として達成される学歴に遺伝が関わっていることも、地球が丸いのと同じくらい当たり前の事実である。
たとえばわが国で東大に行くような人の多くは、子どものころから知的好奇心が旺盛で、学校に上がってもたいして苦労せずクラスで上位の成績を修め、受験を意識するようになると自発的にサピックスや鉄緑会のような受験エリート養成塾に通って、暗記などでは歯が立たない本当の頭を使うような入試問題をも知的ゲームのように楽しんで合格していく。
事実上、親の受験といわれる中学受験くらいまで(児童期)は家庭環境の影響も遺伝と同程度に関与するが、高校以上になるとあとは本人次第だ。そのことは知能に及ぼす遺伝と家庭環境の影響の推移を表した図3からもうかがえる。
これは双生児という特別な人たちのデータだから信用できないという人もいるだろう。ところが最近では遺伝子を調べることで、どんな人でも学歴がどこまで行きそうかを予測することまでできるようになった(Okbay)。
いまのところ学歴に関わる塩基は4000近く特定されており、そこから個人の遺伝得点にあたるポリジェニックスコアを算出すると、学歴の15%程度は説明できる(ただしそのデータは白人集団のものに限られており、幸か不幸か日本人のデータはない)。
かくして遺伝的に高い学歴をとれる人が給与と福利厚生のいい職業につけて、生涯にわたり安心安全のいい生活ができる。
一方で遺伝的に学校でいい成績をとることができなかった人は、偏差値もつかないような最低ランクの学校にかろうじて引っかかったものの、読み書き計算やパソコン、インターネットの能力も人並みに身につけられないまま、卒業できずに世間に放り出され、保険や年金の制度も知らずに、他人から疎まれたり軽蔑されるような仕事で日銭を稼いで、かろうじて生きている。路頭に迷い、のたれ死んでいく人さえいる。
そう、私たちの社会はすでに優生社会なのだ。ここで自己責任論に基づく能力主義を唱えることは、そのような遺伝的資質をもって生まれたこともお前のせいなのだから、責任は自分でとれと言っているわけだ。遺伝の影響といったって50%どまり、残り50%は環境なのだから、その選び方や自分の努力、そして意思の力やいまはやりの「非認知能力」に責任をもてと。
これを高みから言う人たちはといえば、努力する資質も非認知能力も自分の力ではなく遺伝によって与えられているのである。
行動遺伝学者として、私はこれは許すべからざる理不尽な不条理だと思う。などと偉そうに言う私がせいぜいできることといえば、この文章を書くことによってそのことを多くの人に知ってもらい、この理不尽を解決するためのアイデアを、それぞれの持ち場で考え、自分のできるところで、何とかこの優生社会を救うために力を合わせてほしいと願うことだけだ。
ここで、はじめに述べた「真の能力主義」と、学歴や学力評価でつくり上げられた「なんちゃって能力主義」には大きな違いがあることに気づくだろう。学歴それ自体は、いかなる能力も表していない。それは何にでも努力できる能力だ、事務処理能力だなどというが、そもそもそんな抽象的な能力など脳の固有のネットワークのなかには実在しない。
それは学校、あるいは学校制度という人工物のなかで構築された多様で膨大な課題を、学校が求めるような形でこなすことができた能力の来歴への、きわめて雑な寄せ集め指標だ。
たしかに学生時代、難しい数学や物理化学の問題を解いたり、難しい古典漢文や歴史を読み解くことはできた。しかしそこで培った数学能力や歴史能力を使って、高学歴の人が就きたがる輝かしく高い収入と社会的地位が与えられる仕事だけが、世界を正しく美しく善いものにしているわけではない。そしてこの世をより善いものにすることに貢献する能力を発揮してくれているのは、必ずしも高学歴の人たちばかりではない。
あえて具体名を挙げるが、トイレ清掃員(映画『PERFECT DAYS』を観よ)や交通整理係、スーパーのレジを打つ人、あるいは性産業に従事している人のなかにだって、とてつもなくすごい能力を発揮して、人びとに幸福を与え、ある局面では本当に生命を守ることに実質的に働いている人たちがいる。
このように必ずしも尊敬されない、場合によっては人間扱いすらしてもらえない仕事のなかにも価値と尊厳を見出すことのできる遺伝的才能こそ、イチローや大谷翔平や藤井聡太の遺伝的才能と同じくらい、あるいはそれ以上に天才と呼ぶにふさわしい。しかし彼らの社会的評価や収入は恐ろしく低い。この断絶こそが(ニセモノの)能力主義と学歴社会の問題の本質だ。
その目で見れば、この世界で生きている人たちのいかなる営みも、それがなければ、あるいはその歯車が少しでも狂えば、この社会にひずみが生ずる。逆にそれが当たり前に、そしてできれば高品質に維持されることで、社会が成り立っている。このことをわれわれはコロナ禍でいやというほど思い知ったはずだ。
「職業に貴賎がない」とはきれいごとなのではなく、当たり前の事実認識にすぎない。そのことに気づくためにもわれわれはこの世界について多くのことを、自分自身の頭と心で長い時間をかけて学習しなければならない。ちなみに白状するが、私がそれを少しでもわかるようになったのは、恥ずかしながら50歳を越してからだった。
断っておくが、学校で学ぶ知識が役に立たないと言っているのではない。むしろ逆である。学校ではこの世界をつくり上げている膨大な量の重要な知識に触れる機会が与えられている。
これらの知識は、それが生まれたときには、それぞれに特殊な遺伝的素質をもった人たちのとてつもない情熱と感動と労力の投入によって見出され、築き上げられたものだ。
しかもその知識の普遍的性質上、それをつくった人たちの遺伝的特殊性はもはや捨象され、ジェネリックな(由来を問わないの意)知識として社会のなかで使われている。それらはこの世界と社会の仕組みをできるだけよく理解しながら生きていくために必要不可欠なので、学校で教材化されている。
だがその膨大な知識のどの部分が、異なる遺伝的資質をもって新しくこの世に生まれた人たちのそれぞれに、いつどのように実装されるかは、はっきり言ってわからない。それが、学校に通う十数年の間に、一斉授業で、あるいはタブレットを使い個別最適化されたアクティヴな学習によって誰でもそれに出会える保証がないことは、その学習様式を規定する遺伝的条件の多様性を考えれば自明なことである。
だから結果として学力の遺伝率はあらゆる心的形質のなかでも最も高く、少なくない人たちが落ちこぼれ、ギフティッド児や天才や発達障害児は居場所がなくなっている。それは学校が悪いのではなく、そもそもそれが学校の限界なのだ。
その辺の事情をわきまえて、学校教育のあり方や使い方を考えて利用すれば、学校もまんざらではないし、実際いい学校やいい先生も少なからず存在する。また学校の外にも、たくさんのお金のかからない教育環境、学習環境が転がっている。どうやって真の能力の所在に出会い、それを伸ばして役立ててゆくか、その先は各人が経験を通じて考えることである。
こんな言い方をすると何か突き放されたような気がするかもしれない。私にだってアイデアがないわけではない。
学年制を廃止する(そういう国もある)、ITを駆使して誰でもいつでもどこででもどんな学校のどんな授業も無償に受けられるようにする(通信制の学校やMOOCsなど、すでに実現しつつある)、高校生までに「一番なりたくない」職業の体験を強制的にさせ、そこでちゃんと働いている人がどんな知識と技能を使っているかを理解して本当に敬意を払えるまで卒業資格を与えない、などなど。
しかしこれすら私の限られた遺伝的素質と経験から思いつくことにすぎない。この文章を読んだ方々は、もっとすごいアイデアを思いつくだろう。これを非現実的とか妄想とか侮って過小評価してはいけない。そこがあなたにとっての真の能力主義への入口だからだ。
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参考文献
・Polderman,T.,J.,C. Peter, C., Visscher, M. & Posthuma, D. (2015) Meta-analysis of the heritability of human traits based on fifty years of twin studies. Nature Genetics, 47(7), 702-709 doi:10.1038/ng.3285
・Haworth, C. M. A., Wright, M. J., Luciano, M., Martin, N. G., de Geus, E. J. C., van Beijsterveldt, C. E. M., . . . Plomin, R. (2010). The heritability of general cognitive ability increases linearly from childhood to young adulthood. Molecular Psychiatry, 15, 1112–1120. doi:10.1038/mp.2009.55
・Okbay, A., Wu, Y., Wang, N., Jayahankar, H....Young, A.I. (2022) Polygenic prediction of educational attainment within and between families from genome-wide association analyses in 3 million individuals. Nature Genetics, 54, 437–449. doi.org/10.1038/s41588-022-01016-z
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更新:04月16日 00:05