現代のアメリカ政治を語る上で欠かせない二大政党制。その起源は、建国初期の政治対立にまで遡る。連邦派と反連邦派の対立、そしてフランス革命がアメリカに与えた影響など、現代の政治状況を理解する上で重要な歴史的背景について、書籍『教養としてのアメリカ大統領選挙』から解説する。
※本稿は、神野正史著『教養としてのアメリカ大統領選挙』(秀和システム)から一部を抜粋・編集したものです。
アメリカ合衆国の大統領選挙について知るためには、まずアメリカ合衆国の「政党史」について知っておかなければなりません。
アメリカ合衆国といえば、今でこそ「共和党(リパブリカン)と民主党(デモクラティック)の二大政党制」という印象が強いですが、建国当初からそうだったわけではなく、まだ初代ジョージ・ワシントン大統領のころには「政党」は存在していませんでした。
ただし、すでにその"萌芽"は生まれており、その前身となった「連邦派(フェデラリスト)」と「反連邦派(アンチフェデラリスト)」の対立は始まっています。
まだ独立戦争の真っただ中にあった1777年、独立軍は"仮憲法"として「連合規約」を制定したのですが、そのころはまさにイギリス(中央政府)と交戦中だったため、中央政府に対する反発からそれは極めて「州権(地方分権)的」性格の強いものとなってしまいます。
しかし、あまりにも左に偏りすぎた弊害が戦後になって問題視され、1787年、"正式憲法"を制定するにあたって揺り戻しが起こり、「中央集権的」なものに生まれ変わることになりました。
これが、27回もの修正を繰り返しつつも、現在に至るまで脈々とつづいている「合衆国憲法」です。
こうした経緯から、合衆国憲法を護ろうとする者たちが「連邦派」を、連合規約を復活しようとする者たちが「反連邦派」を形成して対立するようになり、これがのちの「二大政党制」の"卵"となっていくのですが、ワシントン大統領はこうした内部抗争を嫌って両派の調停に奔走しますので、政党の成立はもう少しのちのことになります。
とはいえ、ここでワシントン大統領でも抑えが利かない問題が発生してしまいます。
それが「フランス革命」です。
じつは、アメリカ合衆国は独立戦争に当たってフランスから莫大な資金援助および軍事援助(※1)を得ており、フランスには大きな"恩義"を負っていました。
そのため独立からほどなく「フランス革命」が勃発すると、フランスに援軍を送るか否かをめぐって「連邦派」と「反連邦派」の対立が抑えきれなくなってきます。
「ラファイエット殿には口では言い表せないほどの恩義がある! その恩義に報いんためにも革命側に立って参戦すべし!」
親仏の反連邦派がそう捲したてれば、親英の連邦派も反論。
「たしかにラファイエット殿には義理がある。だが、畢竟我々はイギリス人、イギリスと干戈を交えるなど考えられぬ!」
国家というものは創業時がいちばん不安定なので、少なくとも体制が安定するまでは外国の悶着に巻き込まれず、内政に尽力しなければなりません。
建国早々"第0次世界大戦"と謳われることもある動乱の欧州情勢に巻き込まれてはアメリカ合衆国の未来は殆うい。そのためワシントンは「中立宣言」を発します。
──我が国は欧州情勢には関知せず、英仏いずれの陣営にも組しない。
しかし、連邦派と反連邦派の対立は収まりを見せず、彼は両派からの突き上げを喰らい、神経症となってしまいます。
──こんな誹謗される立場に置かれるくらいなら墓の中にいた方がマシだ!
ついに彼は次期大統領選の出馬を拒否(※2)、その告別演説にて「党派闘争の否定」と「中立政策の堅持」を訴えて政界を去ることになりました。
ワシントンはその2年後に世を去りましたが、彼の遺訓「党派闘争の否定」と「中立政策」は守られることなく、そこから2代・3代・4代大統領と連邦派は「連邦党」に、反連邦派は「共和党」となって内政的には激しい党争が、外交的には英仏と同盟や戦争に明け暮れる(※3)ことになりました。
こうしてアメリカ合衆国は、早くも2代大統領のころから「二大政党制」に突入することになります。
[注釈]
(※1)政府(ブルボン朝)からは軍資金20億リーブル(当時のフランスの歳入の4年分)の借受けや援軍派兵、民間からはラファイエットやサン=シモンらの義勇軍など。
(※2)もし、このときワシントンがつぎの大統領選に出馬していたら、確実に当選していたであろうにも拘わらず、彼が「2期8年」で自ら身を引いたことで、以降、「3選目は出馬しない」という慣例が1940年までつづくことになりました。
(※3)具体的には、「ジェイ条約(米&英)」や「疑似戦争(米vs仏)」「1812年戦争(米vs英)」など。
ところで、二大政党制というのは「時代に合わせて、あるいは国際情勢に合わせて両党が交互に政権を担当する」というのが理想ですが、初めのころは安定せず、「連邦党」が政権を握ったのは第2代ジョン・アダムズの「1期4年」のみで、以降、第3代トーマス・ジェファーソン、第4代ジェームズ・マディソン、第5代ジェームズ・モンローと3代「6期24年」にわたって「共和党」が政権を独占する時代がつづきます。
特にジェームズ・マディソンの時代に勃こった米英戦争は国民の反英感情を高め、親英派だった「連邦党」は急速に求心力を失い、続々と党員が党を見限って「共和党」へと移党したため、次のジェームズ・モンローの代には「連邦党」は解散に追い込まれるまでに陥りました。
これにより「二大政党制」は破れて「一党独裁」が成立、結果的に「ワシントンの遺訓」のひとつ(党派闘争の否定)が実現します。
さらに、たまたまこのころ欧州列強(神聖同盟軍)が中ラテンアメリカ南米に軍を送り込もうとしてきたため、これを食い止めんとモンロー大統領は「モンロー宣言(※4)」を発してジョージ・ワシントンの中立政策を明文化したことで、奇しくも「ワシントンの遺訓」のふたつ目(中立政策の堅持)も実現することになります。
ただし、モンローの政策はワシントンの主張した「中立主義」を基盤としながら、彼の時代に合わせて改良したものなので、"ワシントン式中立主義"とまったく同じものではなく、したがって、これ以降は彼の名を冠して「モンロー主義」と呼ばれるようになります。
[注釈]
(※4)厳密には「宣言(declaration)」ではなく「教書(message)」ですが、内容的には「宣言」なので名より実を取って「モンロー宣言」と言い慣わされています。
更新:11月21日 00:05