2024年07月19日 公開
高度経済成長時代が終わる頃、松下電器産業(現パナソニック)はすでに世界的な一流企業としての地位を確立していた。しかし、創業者の松下幸之助は革新の気風が薄れてきたことを危惧し、技術者の幹部社員に向けて使命感にもとづいた"意識革命"の必要性を説いたのだった。
※本稿は『[実践]理念経営Labo 2023 SUMMER 7-9』より、内容を抜粋・編集したものです。
1973年1月、松下電器産業のラジオ事業部で「在阪技術担当責任者対象講話会」が開かれた。京阪神地域の課長職以上の技術者ばかりを集めて実施された、松下幸之助の講話会である。
当時78歳の幸之助は、出席した1200人の技術者に向かって、技術の専門的なことについては理解できなくなってきた面があると述べつつも、"意識革命"の必要性を訴えた。それは、従来の思考枠組みの延長線上で研究開発や製造の仕事に従事するのではなく、その枠組み自体を見直せということである。
幸之助は、松下電器の利益率が伸び悩んでいることに懸念を示していた。このままでは大企業病を患ってしまう――。講話では新年ということもあり、当初は上機嫌だった幸之助の口調も、次第に厳しくなる。
「私が技術者の方々にときどき何か言うと、『それは難しい』と、こう言う。『難しいからやりがいがあるのやないか』『それはそんなものではない』と、こう言う」
幸之助はみずから限界を設定する技術者の姿勢に苛立っていた。知識だけで技術的に可能か不可能かばかりを考え、世と人の繁栄や幸せのために何かを実現しようという使命感に欠けていたからだ。
講話会の会場となったラジオ事業部の原点は、1931年に自社で独自開発したラジオのヒットにある。
もともと松下電器には、ラジオの専門知識を有する技術者がいなかった。それにもかかわらず、短期間で東京中央放送局(NHKの前身)のコンクールで1等の栄誉に輝くほどのラジオを開発し、新型のキャビネットに組み込んで発売したところ、市場で高い評価を得たのである。
もっとも、松下電器はその前年の1930年にラジオ事業に進出していた。当時のラジオは日本国民にとってまさに"新時代"のオーディオ製品。ただ、新しいがゆえに製品としては発展途上の面もあって故障が多かった。
そこで幸之助は、故障なきラジオをつくれば国民に喜ばれると考え、ラジオの製造販売に乗り出す。ただし製造については、自社に技術がなかったため、幸之助が信頼できると思ったラジオメーカーと提携することにした。
ところが、同メーカーに対する幸之助の期待は裏切られ、そのラジオにも故障が続出する。ならば独自に高品質のラジオを開発するしかないと判断した幸之助は、当時研究部主任の中尾哲二郎(のちの副社長)に開発の指示を出した。
中尾は以前にも、専門外ながら、大ヒット商品となるアイロンを生み出した優秀な技術者だ。中尾は、アイロンの開発を命じられたときと同様、ラジオの製造に関しても素人同然だった。
アイロンのときは幸之助から「きみならできる、必ずできるよ」と励まされておおいに発奮したが、ラジオについては「研究したことがないのですぐにはムリです。相当の時日をください」と答えて、消極的な姿勢を見せる。
それに対して幸之助は、「今日アマチュアでも立派にラジオを組み立てているではないか。できないことがあるものか。必ずつくれるという確信を持つかどうかが大切だ。私は確信している」と述べた。ここまで言われてしまっては、中尾も引き下がることはできない。研究部総動員で開発に取り組み、なんと3カ月で先述の1等のラジオを完成してしまったのである。
このエピソードで注目すべき点は、「できるはずがない」と思い込んでいたことも、「できるはずだ」という信念を持って開発に注力すれば、実現することもあるということだ。同様のケースは、他にもある。
1960年代初頭、シガレットケース型のラジオが売れず、幸之助は現場の工場長に「半値にせい」と命じた。工場幹部らははじめ、その高すぎる要求を冗談だと受けとめてしばらく放っておいたそうだが、幸之助の指示が本気であることがわかり、根本から設計を見直す。その結果、劇的にコストを減らし、1963年にほぼ半値で発売。100万台の大ヒット商品となった。
1961年、トヨタ自動車が貿易自由化を見据えてコストダウンを進める一環として、カーラジオを納入していた松下通信工業に対して、20%の価格引き下げを求めたことがある。
松下側としては、そもそも利益率が3%にすぎない取引なので、受け入れがたい要求だったが、幸之助は「日本の自動車産業の将来を考えて」価格引き下げを指示。シガレットケース型ラジオ同様、設計の抜本的見直しにより、性能を落とさずに大幅なコスト削減に成功した。
先述の講話会で、幸之助は技術者に向かって、凝り固まった知識にとらわれてはならないことを強調している。
「技術者は、それが仕事だからどうしても1つのものに集中する。しかし、それにとらわれてしまってはいけない。集中するけれども、同時に頭を海綿のごとくしてやっていく。なんぼでも海綿のごとく吸収していく頭にならなければ、頑固オヤジになってしまう。ぼくは技術者の人に会ってみると、持てる知識、持てる才能、そういうものに凝り固まっていて、なかなか言っても入らない、これは困ったな、という人がときどきあります。いかなることにもとらわれてはいけないのです」
幸之助は1つのことにとらわれないためにも、日頃から衆知を集めることの重要性を説いた。多様な見方を吸収することで、斬新なアイデアが浮かんでくるのだ。
幸之助がものづくりに関して重視したのは、単なる革新や創造ではなく、そこに使命感が伴われていることだ。1930年にどうしてわざわざ他社の力を借りてまで、ラジオの製造販売に乗り出したのか。
それは故障のないラジオをつくることで、従来専門店に限定されていた流通ルートを広げて一般の電気店でも販売ができるようにし、ひいては多くの国民にラジオを普及できると考えたからだ。単に松下電器だけが儲ければよいのだとは思っていなかった。
その証拠に、ある発明家が取得していたラジオの重要部分の特許を1932年に高額で買い取り、無償公開している。共存共栄の精神で、日本のラジオ産業全体の発展を願ってのことだった。自社に利益をもたらすから革新や創造への原動力になるのだというのも一つの見方だろう。
しかし幸之助から学ぶべきは、こうした利己的動機だけではなく、世と人の繁栄や幸せをもたらすという使命感があれば、ラジオ事業のように困難をものともせず、斬新な製品開発への大きなモチベーションが生み出されるということだ。そのような使命感を強く持つことこそ、幸之助の説いた"意識革命"の出発点だといえよう。
更新:12月02日 00:05