2021年03月24日 公開
2022年10月11日 更新
(写真:永井 浩)
2021年、大和ハウス工業を創業した石橋信夫の生誕100周年だという。彼はイノベーションを数多く起こす、創造的破壊を実現する経営者だった。
樋口武男氏は現在、同社の最高顧問だ。樋口氏は創業者が残した言葉の数々を振り返り、不況の最中にある日本企業の展望を語る。大きな転換期こそ、真の実力が試されるというが、我々が学ぶべきことは何だろうか。【構成:塚田有香】
この2021年は、大和ハウス工業の創業者である石橋信夫の生誕100周年に当たる。私が経営者として歩んだ道の前方には、常に偉大なる「創業の人」がいた。
私はこの創業者を人生の師と仰ぎ、1974年に山口支店長に就任して以降、30年間にわたって薫陶を受け続けた。戦後の日本が復興の道を歩みだすなかで大和ハウス工業を創業し、常識を覆す商品を次々と世に送り出して一兆円企業に育て上げるなど、まさに「稀代の実業家」といえる人物だった。
創業者は、ごく自然に創造的破壊を実現する経営者だった。いまでいうところの「イノベーション」を絶え間なく生み出してきたからこそ、企業体としての成長を大きく促すことができたのだ。
なぜそれが可能だったかといえば、創業者に「先の先を読む力」があったからに他ならない。本人も私の顔を見るたびに、こう繰り返した。
「樋口君、"先の先"を見てくれよ。"先の先"やぞ」
1955年に創業した大和ハウス工業が企業として飛躍できたのは、「建築といえば一棟ごとに請負で施工するもの」という当時の既成概念に縛られなかったからだ。
たとえば、創業商品の「パイプハウス」は、あらかじめ鉄パイプを工場で加工して現場で組み立てることで大量注文への対応を可能にして、「建築の工業化」に踏み込んだ。
高度経済成長期に入った1960年代には、都市部に労働力が集中するだろうと先読みし、都市近郊で民間初の大規模住宅団地の開発に乗り出した。
自前で宅地を造成し、プレハブ住宅とセットで売り出すプランを考え出しただけでなく、銀行や保険会社と提携して、いまでは当たり前になった住宅ローンの先駆けとなる画期的な金融サービスまで開発した。
1970年代に入り、経済大国となった日本にゆとりある生活が求められるようになると、"先の先"にあるのは単なる旅行ブームではなく「滞在型リゾート」だと読み切り、まだ手付かずだった景勝地にリゾートホテルを展開。
さらに同時期から顕著になったモータリゼーションの動向も先取りし、ロードサイドに小売店や飲食チェーンなどを開発する流通店舗事業部を発足させた。
企業が時代の動きに敏感に対応しなければならないのは、いつの時代も常識だ。そのためには時流を読み取ることが重要なのも、誰しもがわかっている。
だが実際は、小流を見ただけで終わってしまい、私の目には、その源流となる本流に行き着くための努力をしている人は少ないように映る。
さまざまな社会現象から、その奥に潜む背景や要因を見極め、政治や経済環境、世相や大衆の関心などを柔軟かつ総合的に、そして直感的に捉えること。これが"先の先"を読むことにつながる。
この「直感力」こそ事業のツボであり、命である。私は創業者から、そう教えられてきた。
そもそも、創業の契機となったパイプハウスの着想も直感によってもたらされたものだ。1950年に関西地区を襲ったジェーン台風により、創業者の故郷である奈良県吉野では多くの河川が氾濫し、田畑は土砂に埋まって、多くの建物が倒壊していた。
その惨状を目の当たりにしたとき、「木材の代わりに、強い鉄パイプで建物を建てるのや!」とひらめいたのだという。
本人はこれを"カン"と表現し、私も「事業はな、カンが先で、理論は後や」と何百回も聞かされた。学者のように理論ありきで考えていたら、創造的な仕事は生まれてこないというわけである。
ただし、決して誤解すべきでないのは、創業者がいう「カン」は、たんなる当てずっぽうの「ヤマカン」とはまったくの別物であること。前者は普段から神経を研ぎ澄まし、自分の周りで起きているあらゆることに細心の注意を払って、自らの頭を懸命に働かせ続ける者だけが得られる。
故郷の惨状を見たときも、創業者は「こうした被害を最小限に食い止めるために、自分は何ができるのか」と考えを巡らせた。そして、台風の後でも田んぼの稲や竹やぶに生える竹が倒れていないことに気づき、「なぜか、なぜか」と考えに考え抜いた。
そして「そうか、竹も稲も円だ!茎が丸く、しかも中が空洞になっている。だから、しなやかで強いのだ」というところまで考えを突き詰めた。それが「鉄パイプで建物を建てるのや!」との天啓にも近いひらめきを生んだのだ。
自らの頭を懸命に働かせ続けるのは、平凡なことのようで、じつは難しい。しかし、その難しいことにずっと取り組み続けていると、アイデアを生み出すヒントが至るところに転がっていることに気づかされる。
すぐに良いアイデアを掴めなくても、その懸命な姿勢が後日のひらめきを引き寄せる突破口となるのだ。
創業間もない大和ハウス工業が大躍進する契機となったプレハブ住宅の原点「ミゼットハウス」も、創業者が観察を突き詰めて生み出したアイデアだ。その開発秘話は、次のようなものである。
ある日、趣味の鮎釣りに出かけると、川べりで遊ぶ子供たちがやたらと多いことに気づいた。しかも日暮れが迫っているのに帰ろうとしない。「はよう帰らんと叱られるぞ」と声をかけると、「帰っても居るところがないんや」と意外な答えが返ってきた。
そこで創業者はまた頭を働かせた。当時はベビーブームで子供の数が急増し、自宅に帰ると子供たちは親兄弟と一緒に狭いスペースにすし詰めにされる。
そこで「よし、この子たちに独立した勉強部屋をつくってやろう!」とひらめいたのである。そして「3時間で建つ11万円の家」と銘打った「ミゼットハウス」を開発したところ、注文が殺到。爆発的ヒット商品となった。
これも鮎釣りをしながら目にした光景について、漠然と「今日は子供が多いな」と思っただけだったら、決して生まれなかったアイデアであろう。
「ものごとを片方からだけ見るな。表、裏、外側、内側からと、あらゆる角度から見る。そこに新しい発想が湧き上がるのや」
私たち社員に、よくそう話してくれた。そこまで観察を突き詰めたところに、優れた創造が生まれる。それが創業者の信条だった。
更新:10月30日 00:05