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ドイツに尽くしたユダヤ人、フリッツ・ハーバー...成功の裏にある「父に見捨てられた」過去

2024年06月11日 公開
2024年12月16日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

天才の光と影

ノーベル賞を受賞するほどの「光」に輝く偉才たちの中でも、とくに私たちに窺い知れない「影」を抱えた23人。彼らの影はなぜ生まれたのか――。新刊『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』を著した著者に、天才たちの狂気を生み出した背景を伺った。(聞き手:岩谷菜都美)

 

人類の「救済者」かつ「殺戮者」となったハーバー

フリッツ・ハーバー, Fritz Haber
フリッツ・ハーバー 1916年

――(岩谷) ノーベル賞受賞者たちの中でも先生がとくに「狂気」を感じる23人の生涯を描いた『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』。よく「天才と変人は紙一重」といいますが、高橋先生はどのように思われますか。

【高橋】この本に出てくる天才たちは、単なる「変人」というレベルをはるかに超えています(笑)。私たちの職場や知人を見ても、変人って世の中に一定数いるでしょう。でも、本書に登場する23人の能力や人格は、まったくの規格外といえます。

たとえば、本書の第1章に出てくるフリッツ・ハーバー(1918年ノーベル化学賞)。世界初のアンモニアの化学合成に成功したドイツの化学者で、彼の成果のおかげで人工アンモニア由来の化学肥料が世界にもたらされました。現在、その化学肥料は地球上の50億人の命をまかなっているとも推測され、ハーバーは文字通り「人類の救済者」といえます。

彼は、窒素と水素の混合ガスを高圧下で触媒に通してアンモニアを分離させるという、気の遠くなるような実験を異常なほどの集中力で5年間も続け、ようやく「オスミウム」が最適な触媒であることを発見しました。

――成功するかもわからない実験に、5年間も熱中し続けたのですね。

【高橋】ところがハーバーは同時に、毒ガス兵器を開発して数多くの犠牲者をもたらした「人類の殺戮者」としても知られています。

彼は空気より2.5倍重い塩素ガスを開発し、1915年4月、ベルギーのイーぺルの戦いで自ら指揮を執って、西部戦線の連合軍の塹壕に向けて散布しました。その結果、約5000人が死亡、1万5000人がガス中毒となって失明や呼吸困難の後遺症に苦しみました。

ハーバーは、ポーランドのヴロツワフ大学で女性初の化学博士号を取得したクララ・イマヴァールと結婚します。彼女は人道主義的見地から夫の毒ガス開発に猛反対しますが、ハーバーはとり憑かれたように研究を進めます。

イーペルの戦いで夫が果たした役割を知ったクララは、ハーバーの軍用拳銃で自殺しました。彼女は、自分が犠牲になれば夫を改心させられると信じたのか、あるいは絶望的に最大限の抗議を示したのか、いずれにしてもつらい悲劇です。

 

父親に見捨てられる

――何が、ハーバーをそこまで駆り立てたのでしょう。

【高橋】その要因の一つは、彼と父親との関係にあるのではないかと私は考えています。ハーバーの父親ジークフリートは、裕福なユダヤ織物業者の出身でした。彼は、幼馴染のパウラと熱烈な恋愛関係になり、周囲の反対を押し切って「いとこ結婚」をします。そこで生まれたのがハーバーでした。

ところが、パウラは産後不良で3週間後に亡くなってしまう。最愛の妻を亡くしたジークフリートは、忘れ形見のハーバーを可愛がるどころか、忌み嫌うように避けて妹夫妻に預けたまま放置したのです。

――ハーバーは、父親に見捨てられてしまった......。

【高橋】ジークフリートは、よほどパウラを愛していたのでしょう。だから、彼女を思い出させる息子ハーバーを見たくなかったのかもしれない。ジークフリートは再婚するまでの6年間、文字通りハーバーを見捨てて、異常なほど仕事に没頭します。

一方、ほとんど親戚たちのユダヤ共同体で育てられたハーバーは成績優秀で、通常よりも1年早く17歳で「大学入学資格」を得ます。

ところが、家業を息子に継がせたいジークフリートは、息子の大学進学に反対し、無理やり染物商会に弟子入りさせる。勉強好きのハーバーにとって、商人に雑用を言いつけられる日々は耐え難い苦痛でした。彼は2カ月後、勝手に商会を辞職して家に戻ってきてしまう。激怒した父親を親戚たちが懸命にとりなし、ようやくハーバーはベルリン大学に進学できました。

しかし、考えてみると、後にハーバーも妻クララをないがしろにして毒ガス開発に没頭するようになる。この父子の徹底した自己本位の集中力と固執性は共通しているわけです。

――ハーバーの化学者としての成功への執着の根底には、「父に認められたい」という感情があった。

 

ドイツ人になろうとしたユダヤ人

『天才の光と影』(PHP研究所)

【高橋】もう一つは、彼がユダヤ人であることが挙げられます。ただし彼は、クララと結婚する前にキリスト教に改宗してユダヤ共同体と決別するんです。

その後のハーバーは「ドイツ人以上にドイツ人になろうとしている」と陰口を叩かれるほど、ドイツに尽くしました。彼が、イーペルで使われた塩素ガスを強化した「イペリット・ガス」、さらに毒性の強い「ツィクロン・ガス」を開発し続けたのも、当時のドイツの学界や軍部から認められるためでした。

ベルリン大学の同僚でハーバーの親友だったアインシュタインは、ハーバーのことを「天才」と認めながら、「君は、科学的才能を大量殺戮兵器のために浪費している」と批判しました。これに対してハーバーは、「毒ガスで戦争を早く終わらせることができれば、結果的に、より多くの無数の人命を救うことができる」と反論しています。

しかし、実際には皮肉なことに、彼の開発した毒ガスは、ナチス・ドイツが効率的にユダヤ人を抹殺するために強制収容所で使用されました。しかも、これほどドイツに尽くしたハーバーに対して、ヒトラーはユダヤの出自によって迫害し、彼はベルリン大学を辞職せざるを得なくなります。

行先のないハーバーを最後に受け入れてくれたのは、イスラエルのユダヤ人研究所でした。ハーバーは異常なほど努力し、父親から嫌われても妻が自殺しても完璧な「ドイツ人」になろうとした。にもかかわらず、ドイツそのものから見捨てられてしまった。結局彼は、ユダヤと父の血を引く自らの運命から逃れられなかったのです。

著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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2025年1月

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発売日:2024年12月06日
価格(税込):880円

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