【横田】仏教にも、いろいろな死の捉え方があります。禅宗では、死というのは命が生まれる前のふるさとに帰るだけであり、決して消えてなくなるわけではない、という見方をします。
【片柳】死は決して終わりではない。
【横田】私はしばしば、命をシャボン玉にたとえて話をします。私というシャボン玉が割れてしまったとき、多くの人は存在が消えてなくなったものだと考える。けれども、じつは私というものを形づくる「膜」が消えただけで、いままで境界で隔てられていた中の空気が外と一体になった、ということです。命が本来の世界と一つになるだけで、何も恐れることはない、と。
以前に私がそのような講話を行なったところ、目の前にいる30代ぐらいの女性が、涙を流しているのに気づきました。事情を聞くと数ヶ月前に、彼女のお父さんがダンプカーに轢かれて亡くなってしまった、という。肉親を失った悲しみと加害者に対する憎しみで、やり場のない苦悩を抱えていたけれども、話を聞いて「父はいなくなったのではない。いつも一緒にいるんだ」と、安堵の思いで涙があふれてきたそうです。
さらに彼女は後日、交通事故を起こした加害者に宛てて「自分を責めないでほしい」という内容の手紙を送りました。「命を奪われた」という喪失の感情だけでは、やはり恨みや悲しみは消えません。反対に死を受け入れることができれば、それはやがて許しにつながるのです。
【片柳】エリザベス・キューブラー=ロスという精神科医は、「死の受容」の5段階のモデルを提唱しています。
1つ目は、現実を認めたくないという「否認」。2つ目は「なぜ自分が死ななければならないのか」という「怒り」です。
3つ目は「取引」。「神様、もうお酒は飲みませんから長生きさせてください」というような断ち物や、御百度参りも取引のうちに入るでしょう。
【横田】しかしこの取引というものは、なかなか成就しないものでしょう。
【片柳】はい。そこで4つ目の反応として、願いが叶わなかったがゆえの「抑鬱」状態が訪れます。
そうした段階を経て、最後の5つ目として死を「受容」する段階が訪れる、という。「いろいろなことがあったが、なかなかいい人生だった。生まれてきてよかった」と思い、すべてを受け入れる。
興味深いのは、キリスト教においては上記の5段階をまさにイエス・キリスト自身が歩んでいる、という点です。順番に前後はあるものの、イエスは苦しみを前にして、神に「できることなら、この杯をわたしから遠ざけてください」と訴え、交渉しているように見えます。さらに「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と苦情をいい、やがて「すべてを神に委ねます」という受容に達するのです。
重要なのは、イエス自身ですら十字架上で自らの死を受け入れるまで苦悩と葛藤を重ねていた、ということ。したがって、キリスト教を信じているから「死ぬのは全然怖くありません」ということには必ずしもならない(笑)。むしろ、じたばたしたほうが人間らしいということになりますね。
【横田】最後までじたばたしてもよい、といわれると人間、安心できるものですからね。
【片柳】われわれが経験するような絶望や無力感は、じつはすでにイエス本人がすべて味わっている。
キリスト教のこうした特徴は今年、生誕100年を迎えたカトリック作家・遠藤周作の小説『沈黙』によく描かれています。
神はこの世において、病気や死を取り除くかたちでは人間を救わない。しかし、病や死の苦しみにとことんまで寄り添うことで、人間が死を乗り越える力を与えてくれる。人々の苦しみに寄り添うことによって、苦しみを乗り越える力を与える。それこそ、宗教が存在する意味といえるのではないでしょうか。神父の役割も、基本的にはそれに尽きると思っています。
【横田】かつて医学の世界では、死は医療を尽くして戦った末の敗北である、という考え方が趨勢でした。しかし、死は決して敗北ではない。拒絶や怒りを超え、死を迎える人にひたすら寄り添うというキリスト教の姿勢には学ぶところが大きい、と感じますね。
更新:12月04日 00:05