Voice » 本音の目的を隠す喫煙規制
2023年07月20日 公開
2024年12月16日 更新
原則屋内禁煙が定められた改正健康増進法が、全面施行から5年が経過する2025年4月をめどに小規模飲食店に例外的に認められていた喫煙の見直しについて議論されることが想定される。そもそも、改正健康増進法そのものには問題はないのか。日本を代表する法哲学者が専門的な知見から考える。(取材・構成:清水 泰)
※本稿は『Voice』2023年7⽉号より抜粋・編集したものです。
――原則屋内禁煙が定められた改正健康増進法ですが、全面施行から5年が経過する2025年4月をめどに、「当面の経過措置」として小規模飲食店に例外的に認められていた喫煙の見直しについて議論されることが想定されます。
さらに、大阪府独自の受動喫煙防止条例が2025年4月の万博開催に合わせて全面施行され、経過措置の対象が国の基準より限定的になります。喫煙規制のさらなる強化も問題ですが、改正健康増進法そのものに問題はないのでしょうか。
【井上】改正健康増進法の「望まない受動喫煙の防止」という目的は正しい。東京都の受動喫煙防止条例でも「自らの意思で受動喫煙を避けることができる環境の整備を促進する」とあり、本人の意思によらない受動喫煙を防ぐことを定めています。立法の目的は正当だし、望まない受動喫煙の防止に必要な分煙規制なら認められるものです。しかし、問題は国法・都条例が採用している規制手段が「分煙」の枠を超えている点にあります。
喫煙規制について、法哲学的にはイギリスの哲学者J・S・ミルが著書『自由論』で提示した「他者危害原則」が適用される、と考えられます。個人の自由に対する法やインフォーマルな社会的圧力による制限が許されるのは、他者に対する危害を抑止するのに必要なとき、かつそのときのみである、という原理です。個人の自由の社会的制約はとくに重い理由でしか正当化できない、その理由とは他人に危害を与える行為の抑止だとする。
ミルの他者危害原則の意味は、それが国家や社会の権力に対して何を禁じているかを見ることで明らかになる。禁じられているのは、次の二つの権力行使です。
一つは、誰も他人を傷つけてはいないが、当人の行為が不道徳、悪徳だとして罰すること。哲学用語では「卓越主義(perfectionism)」といいます。特定の「善き生」を想定し、人間をそれに基づいて道徳的に卓越した存在、有徳な存在へと高めることが法や政治の目的である、とする考え方です。
卓越主義により個人の自由が抑圧された例は古今東西、沢山あります。たとえば、成人同士の同意に基づく同性愛関係。イスラム社会では同性愛は現在でも禁止されており、死刑を含む重罪です。キリスト教圏の欧州諸国でも長く犯罪とされ、イギリスで合法化されたのは1967年でした。アメリカの連邦最高裁はなんと1986年に同性愛行為など特定の性行為を罰する反ソドミー法を合憲とし、これが覆されたのは、2003年のことです。
成人同士が性行為を合意のもとで自分たちの家の中で行なうのは、他者を傷つける行為ではない。にもかかわらず不道徳という理由で長年、罰してきたのです。
――卓越主義に基づく喫煙規制を行なうと、「非喫煙者は喫煙者より善き人生を送れる」と国家に強要されかねませんね。
【井上】他者危害原則が禁じているもう一つの権力行使は、いわゆる「パターナリズム」です。これは強制・干渉される人びとの保護を理由になされる強制・干渉です。他者危害原則によれば、個人が他者に危害を加えるのを抑止するのは正当だが、「個人が自己自身に危害を加えることから当人を救済する」という理由で当人に強制や干渉するパターナリズムは許されません。パターナリズムだと、分煙規制だけでなく、健康リスクを本人が引き受けた喫煙自体も規制の対象になります。
パターナリズムは「父権的干渉主義」とも訳されます。父親がその意に反することを子供がやろうとしたとき、「それは危ない。お前はまだ幼くて思慮が足りないから、経験のある大人の言うことを聞きなさい」と、わが子の幸福や利益を理由に子を統制するのがモデルになっている。
要するに、市民を子供扱いする親代わりの国家が、市民がリスクを承知で行なう自主的行為を規制するのがパターナリズム。
ここで重要なのは次の点です。Xの行為(喫煙)によりYに何かの影響(受動喫煙)があるが、Yはその影響を受容しているとする。それにもかかわらず国家が、Yが受ける影響(受動喫煙)はYを害するから、Yがそれを受容するのも規制するとすると、これはYを自己危害から保護するという口実でなされるパターナリズムで、他者危害原則からは許されない。
要するに、他者危害原則は「喫煙自体の禁圧」を排除するだけでなく「受動喫煙自体の禁圧」も排除しており、「他者が望まない受動喫煙の規制」だけを公権力に許容しているということ。改正健康増進法や東京都の受動喫煙防止条例も、他者危害原則のこの含意がわかっているからこそ、受動喫煙自体ではなく、「望まない受動喫煙」とか、「本人の意思によらない受動喫煙」の防止という規制目的を建前に掲げているわけです。
――では、何が問題なのでしょうか。
【井上】実際に採用された規制手段が建前の規制目的に反していることです。望まない受動喫煙を防ぐのであれば、分煙をすればよい。ところが具体的に規定された規制手段を見ると、分煙目的を実現するために必要と見なせる程度を超えて、喫煙の場所や設備に過度な制限を設けています。分煙を看板にして、実際には「排煙」すなわち喫煙そのものの排除を狙っているとしか思えない規制をしている。
現在の規制は、多数の人が利用する施設、旅客運送事業の船舶・鉄道、飲食店等の施設では、屋内は一定条件に従って設置された喫煙室以外は原則禁煙で、例外的にシガーバーやスナック、客席面積が一定規模以下の飲食店等での喫煙が認められています。屋外の喫煙所はスペースも数も足りず、愛煙家があたかも用を足すかのように恥じ入って出入りする場所になっている。このような規制は非合理的で、不必要です。
望まない受動喫煙を防止するというのなら、たとえば飲食店に関しては、全席禁煙の店と、飲食はできないが喫煙ができる喫煙専用室のある店、飲食しながら全席で喫煙できる店、禁煙と喫煙席が壁やテーブルで分けられている店などのかたちで明示し、あとは消費者に選ばせればよい。
――表示を確認して入店すれば、望まない受動喫煙を防げますね。
【井上】そのほうが非喫煙者にも喫煙者にも優しい。なぜかというと、いま日本の喫煙率は16.7%で、市場の動向から見れば非喫煙者が圧倒的に多いからです。店舗の分煙ポリシーの表示を明確化すれば当然、非喫煙者にフレンドリーな喫煙ポリシーをとる飲食店が大多数となり、非喫煙者の選択肢が狭まることはありません。
そして喫煙者にとっても、一見すると選択肢が狭まるように思えますが、現行の画一的な喫煙専用室でしか吸えない、喫煙しながらの飲食が基本的にできないといった規制より、飲食しながら自由に吸える場所が一定数確保されるので利便性ははるかに高まる。望まない受動喫煙を防止しつつ、喫煙の自由をより制約しない分煙方法があるのです。
ほかにもタクシーは一部地域ですでに全面禁煙となっていますが、これも利用者のニーズに応じて喫煙可のタクシーと禁煙のタクシーを分ければよい。
また新幹線についていえば、たとえば東海道新幹線「のぞみ」の運行本数は一日約400本です。のぞみの車両と車両の間のスペースに設けられた狭い喫煙ルームで、周りに遠慮しながら一服するより、一割でも全席喫煙可の車両を設け、九割は全車両禁煙にしたほうが、ずっと快適に利用できます。九割は喫煙専用室もないなら、嫌煙者にとっても望ましいはず。
――規制手段が規制目的に反することを判断する方法はあるのですか。
【井上】じつは「規制目的は正しいが、規制手段が適切かどうか」をチェックするためのテストがあるのです。米国や日本の違憲審査制では、法令や行政行為が憲法に反するかどうかを裁判所がチェックし、憲法に違反する場合は違憲で無効と判断します。民主的な手続きで制定された立法を裁判所が覆す違憲審査権は、民主主義とつねに緊張関係にあります。裁判所が違憲審査権を過度に発動すると、民主主義社会の土台を覆しかねない。
それでも少数者の基本的人権が多数の力によって侵害されるのを抑止するには、違憲審査権の発動が必要。そこで、民主主義と立憲主義的人権保障のバランスをとるために、民主的立法府に広範な裁量を裁判所が認める緩やかな違憲審査基準と、立法権が濫用されやすい場合に裁判所がこれを厳しく統制する厳格な違憲審査基準とを使い分ける「二段階審査制」が米国や日本で採られています。その厳格な違憲審査基準の一つとして、米国で「LRA」(Less Restrictive Alternatives)と呼ばれる基準があります。
LRAは略語で、「より制約的ではない他の手段」という意味です。ある立法による規制目的を実現するために、規制対象たる個人の自由に対する制約が「より少ない他の手段」があるにもかかわらず、不必要に制約的な規制手段を採用する規制立法は違憲である、とする基準です。
――日本でLRA基準は使われているのですか。
【井上】戦後日本の憲法学では、経済的自由の規制立法に関しては、弱者救済だから厳格性が緩くてもよいという発想が根強く、経済的自由規制には緩やかな審査基準、表現の自由など精神的自由への規制には厳格な審査基準を使うというタイプの二段階審査制が「二重の基準」の名で長く影響力をもっていました。
LRAは経済的自由規制立法にも適用される厳格な審査基準ですから、その重要性はあまり理解されてきませんでした。しかし、ようやく日本でも判例が先導するかたちで重視されてきたように思えます。
最高裁の違憲判決として、1975年と古いものですが、薬事法違憲判決があります。当時の薬事法では、ある地域に既存の薬局があると、一定以上離れたところにしか新規の薬局が開設できない距離制限が規定されていました。
根拠になる規制目的は「消費者の保護」で、薬局が過当競争になると「安かろう、悪かろう」の薬を売りつけて儲けようとするから消費者利益を害する。これを防止するというのが表向きの規制目的でした。
しかし、消費者の保護が目的なら無認可薬が出回らないよう薬の認可を厳しくし、無認可薬を売った薬局を厳しく罰すればよい。よりストレートで効果のある手段があるにもかかわらず、距離制限を設けて営業の自由を規制していたわけです。最高裁で違憲判決が出て、薬事法からこの規定は削除されました。
――目的と手段との間に一応の関連性はあるけれども、自由制約性の少ない規制手段が問われたのですね。
【井上】違憲審査の判断基準として、目的と手段に合理的関連性があれば合憲というのでは、やはり論拠として弱い。薬局の距離制限規定にも一応の合理的関連性がありましたから。そうした緩い合理性基準ではなく、目的を実現するために自由制約性のより少ない他の規制手段があれば違憲である、という厳格な審査を可能にしたのがLRAという基準なのです。
――LRA基準の活用には、ほかにも狙いがあるとか。
【井上】法哲学者としての観点から、LRAの基準について重要な点がもう一つあります。私が指摘するまで憲法学者でも指摘する人があまりいなかったのですが、じつはLRAの基準は規制手段のテストであると同時に、規制目的自体をテストするものです。「不当な規制目的を排除すること」が真の狙いといってもよい。
どういうことかというと、「立派で穏当」と見える建前上の規制目的を実現するため、より自由制約性の少ない手段があるにもかかわらず、不必要に自由制約的な規制手段を採用するのは、じつは「立派な建前」に隠された「不純(または偏狭)な政治的目的」が「本音」の立法動機になっており、それを立法目的に明記すると、広範な社会的支持を得て民主的討議のプロセスをパスすることができないからだ、というのが通例です。
立派で穏当な規制目的に隠して不純・偏狭な狙いを達成しようとするのは、残念ながら現代の民主政治のままある実態です。LRA基準はこういう姑息な政治的策略を違憲として排除することにより、違憲とされたくなかったら、規制手段に適合する本音の規制目的を明示するしかない、という制約を立法者に課します。つまり、本音をなす立法動機を吐き出させて、民主的討議のテストの篩にかけさせるのが、LRAの存在理由をなします。
――政治的に不純な隠された目的とは、たとえばどういうものですか。
【井上】薬局の距離制限規定でいうと、「既存薬局の地域独占を守る」という既得権の保護が本音でしょう。こんな特殊権益保護の本音を立法目的として正直に掲げたら、とても民主的立法プロセスをパスできない。仮に強行採決で通しても世論の厳しい批判を招くでしょう。
そこで本音の目的は隠して、消費者保護という受けのいい目的を掲げて立法プロセスを通そうとする。隠された「汚い目的」が民主的な立法プロセスで議論されないまま通ると、結局は立法の民主的正統性そのものを傷つけてしまう。
改正健康増進法、東京都など各自治体の受動喫煙防止条例については、「分煙」という立派で穏当な規制目的に隠されている「排煙」という立法動機は、「不純な特殊権益保護」とは性格が違いますが、他者危害原則によっても正当化できない「偏狭で過激な政治的動機」で、それを立法目的に公然と掲げると社会的批判を招き、民主的立法過程をパスしにくいと規制権力主体が考えるからこそ、隠されているのです。
LRAを前提に改正健康増進法、東京都や大阪府の受動喫煙防止条例を見ると、隠された本音の目的が浮かび上がってきます。
更新:05月04日 00:05