フルトンは、チンパンジー実験のように人間の「前頭葉」をすべて除去することを想定して「無謀」だと答えたのだが、実はモニスは、「前頭葉」の中にある「白質」だけを麻痺あるいは切除させればよいと考えていた。
「白質」とは、神経線維が多く結合した部分で白く見えることから名付けられた神経回路のことで、モニスは「精神疾患に見られる強迫観念や妄想状態は、白質の神経細胞間の回路が固定化」が原因だとみなしていた。
したがって、その「固定化された細胞」を切除すれば精神疾患は治癒し、脳は新たな神経細胞を構成して「適応」するため、人格機能への影響はほとんどないはずだと想定した。
モニスは、「リュートコーム」と名付けた細い管の器具を前頭葉に挿入し、「白質」部分で回転させて、リンゴの芯をくり抜くように切除する手術方法を発明し、この手術をギリシャ語の「白(leuko)」と「切除(tome)」から「ロイコトミー(leucotomy)」(前頭葉白質切截術)と名付けた。
なお、モニス自身は手術を実施することはなく、ロイコトミー手術はすべて外科医リマが実施している。
62歳のモニスは、1936年3月、パリの神経医学会でロイコトミー手術による20例の報告を行った。対象となった患者の疾患は、精神分裂病や不安神経症などで、「治癒7例・改善7例・変化なし6例」という成績を、248ページにわたる詳細な報告論文に記している。
チンパンジーの実験を知ってから半年余りで、人間への手術を20例も実施して報告したのは、モニスが先取権を争っていたからだとみなされている。「脳血管造影法」では届かなかったが、「精神外科」によるノーベル賞獲得を意識していた可能性も十分あったに違いない。
モニスの元には世界中からロイコトミーに対する問い合わせがあったが、そのなかにアメリカのジョージ・ワシントン大学医学部神経学・神経医学科のウォルター・フリーマン教授からの手紙があった。
彼は「先生の研究を大変興味深く拝見しました。私も患者に先生の方法で手術を施すつもりです」と述べて、モニスの「リュートコーム」の製造元を尋ねている。
フリーマンは、1936年9月14日にアリス・ハマットという63歳の患者に、ロイコトミー手術を施した。彼女は「虚栄心が強く、意固地で、不安定で、感情的で、口うるさく、不眠症と閉所恐怖症と自殺願望」があり、フリーマンの診断は「激越性鬱病」だった。
彼女は手術を望んでいなかったが、妻のことを「不平不満の女王」と呼んでいたハマットの夫は、新しい方法による手術に大賛成して妻を説得した。
手術後のハマットは「穏やかな表情」になり、「不安」を覚えることがなくなり、睡眠もとれるようになったが、言葉は呂律が回らず、ほとんど会話が成立せず、誰にも読めない字を書くようになり、手術から5年後に肺炎で亡くなった。
それでも彼女の夫は手術後の妻が「彼女の人生にとって最も幸福な時間だった」と述べている。
フリーマンは、手術から17日後にコロンビア特別区医学会で「激越性鬱病に対する前頭葉ロボロミー手術症例報告」を行った。ここで彼は初めて「ロボトミー(lobotomy)」という造語を用いているが、彼がどこまで「ロボット(robot)」(人造人間)を意識していたのかは不明である。
いずれにしても、フリーマンは医学会で「ハマットは治癒した」と述べたが、それに対して複数の医師が「それは治癒とは呼べない」と批判した記録が残されている。
ウォルター・フリーマン(1947年)
1937年6月7日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、第一面の「精神病治療の転換点のなる新たな手術」というタイトルの記事で、ロボトミー手術が「獰猛な野生動物」を「穏やかな人間」に変える画期的方法だと紹介している。
この手術により「緊張、不安、落ち込み、不眠、自殺願望、妄想、幻覚、幻聴、鬱症状、強迫観念、パニック状態、見当識障害、精神性疼痛、神経性消化不良、ヒステリー症状」などが緩和されるというのである。
アメリカ合衆国の精神病患者は、1909年に約16万人にすぎなかったが、第一次世界大戦や大不況を経た1940年には約48万人に達する。当時の人口増加率のちょうど2倍の速度で精神病患者が増加していたわけである。
この時代には、現在のように有効な抗精神病薬が存在せず、多くの精神疾患に「ショック療法」が用いられていた。
1933年に開発された「インスリン・ショック療法」では、暴れる患者にインスリンを皮下注射して強制的に「低血糖」によるショック状態を引き起こして昏睡させ、1時間後にグルコースを注射して覚醒させるという方法である。
1935年に開発された「メトラゾール・ショック療法」は、痙攣と昏睡を引き起こす薬物「メトラゾール」を患者に皮下注射する方法だが、これによって緊張型精神分裂病が治療できると信じられていた。
1938年には「電気ショック療法」が発明され、患者の頭の両側に電極を取り付けて高圧電流を流した。この方法には即効性が認められ、今でも重度の鬱病に用いられることがある。
しかし、より簡便な方法を模索していたフリーマンは、台所にあったアイスピックとグレープフルーツを使って「経眼窩的ロボトミー手術」の練習を行った。
この手術は、患者の上瞼を持ち上げてアイスピックを眼窩上縁に接触させて、鼻梁と平行に大脳縦裂に約15度になるように薄い骨層をハンマーで叩いて挿入させて、アイスピックの先端を動かして白質を切除するという手術である。
1946年1月、フリーマンは診察に訪れた精神分裂病の患者サリー・イヨネスコに電気ショックで麻酔をかけ、アイスピックとハンマーで実際の手術を行った。彼は、イヨネスコの両眼窩の手術を約7分間で終わらせることができた。
アイスピック・ロボトミー
その後、フリーマンは、文字通りアイスピックとハンマーをポケットに入れて、アメリカ各地を回って講演と手術を実演した。ウエストバージニア州立ウェストン病院では、12日間に228人の精神疾患患者を診察し、最終日には22人の手術を2時間15分で実施している。患者1人当たり、約6分しか手術時間をかけなかったことになる。
この手術の後、多くの患者は「蝋人形」のようにベッドに寝た切りで動かなくなり、感情の欠如した廃人のようになった。しかし、多くの新聞や雑誌は、これが「狂人を正気に戻す治癒」だとみなした。
「アイスピック・ロボトミー」は「歯を抜くのと変わらない」簡単な手術だと宣伝され「ドライブスルー・ロボトミー」とも呼ばれた。
リスボン大学のモニスは、1939年に精神分裂病の患者から銃で数発撃たれ、脊髄を損傷して半身不随となり、その後は車椅子で生活を送るようになった。
撃った患者は、ロボトミー手術を受けていたという説もあるが、それは誤りである。他にも政治的な怨恨などの説もあるが、あくまで精神分裂病による妄想が原因だったようである。
1943年に70歳でリスボン大学を定年退職した後、モニスはサンタ・マルタ病院の臨床外科医長に就任した。1948年には「第1回国際精神外科学会」がモニスを讃えてリスボン大学で開催され、世界28カ国から200人以上の神経科医が集まっている。この学会だけを見れば、「精神外科」が世界で認められたように映るかもしれない。
そして1949年、モニスは「ある種の精神病に対する前額部大脳神経切断の治癒的価値の発見」によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。
彼は、ポルトガルで初めてのノーベル賞受賞者となり、現在もポルトガルで唯一の受賞者のままである。ちなみに同じ1949年のノーベル物理学賞は湯川秀樹に授与されたが、こちらも日本で最初のノーベル賞受賞ということで大騒ぎになった。
1955年12月13日、88歳のモニスは脳内出血により逝去した。死後も彼は「ポルトガルの英雄」であり、1975年には彼の生誕100年を祝ってポルトガル国立病院が「エガス・モニス病院」と改名されている。
一方、ロボトミー手術は1970年代までアメリカを中心にイタリア、ルーマニア、ブラジル、日本などで4万件以上実施されたが、その「非人道性」が強く批判されるようになり、また効果的な抗精神病薬が次々と発明されたために、もはや実施されていない。
ノーベル財団には「ロボトミー手術で人格を破壊された被害者団体」から、モニスの生理学・医学賞を抹消すべきだという申請が何度も提出されている。これが「史上最悪のノーベル賞」と呼ばれる所以である。
更新:11月22日 00:05