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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第14回 エガス・モニス(1949年ノーベル生理学・医学賞)

2023年03月02日 公開
2024年12月16日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

パリ講和会議全権大使を務め、ロボトミー手術を確立した天才

エガス・モニス
エガス・モニス(1949年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

貴族の家系に生まれた神童

エガス・モニスは、1874年11月29日、ポルトガル王国のアヴェイロに生まれた。

ポルトガルは、イベリア半島の西端に位置し、南北に長方形の国土を形成する。アヴェイロは、大西洋に面した北部の県で、現在も人口5万人ほどの小都市である。モニスの生家は、エスタレージャ区アヴァンカという内陸部の町にある。

現在、彼の生家は「エガス・モニス美術館(Casa-Museu Egas Moniz)」になっている。宮殿のような建物に、先祖代々の遺産に加えて、彼が生涯をかけて収集したポルトガルの近代絵画・版画・彫刻や家具・金細工・磁器などの美術品が展示されている。

実は、彼の本名は「アントニオ・カエターノ・デ・アブレウ・フレイレ・デ・レセンデ」という「レセンデ家」の子孫を意味する名前だったが、「ゴッドファーザー(名付け親)」となった叔父のカエタノ・フレイレ神父が、レセンデ家は貴族エガス・モニスの子孫であることから、彼にその名称を引き継がせたのである。

モニスは、少年時代からエレガントな美術品や装飾品を好むと同時に、科学の明晰さに惹かれて、批判的に思考することを好んだ。彼は、1891年にイエズス会系の聖フィデリス大学に入学して文学を学び、1894年にコインブラ大学医学部に編入した。

モニスの指導教授となったのは、神経医学を専門とするアウグスト・ロシャである。あらゆる科目で優秀な成績を収めたモニスは、ロシャの推薦により、在学中にフランスに留学して、ボルドー大学とパリ大学で研究を続けた。

パリのピティエ・サルペトリエール病院では、後に「バビンスキー反射」の発見者として知られるようになるジョゼフ・バビンスキー教授の下で臨床神経医学を学んだ。

帰国した26歳のモニスは、1901年2月7日、高等学校を卒業したばかりの16歳のエルヴィラ・ディアスと結婚した。彼女の父親は弁護士であると同時に政治家でもあり、モニスの将来を見込んで娘を結婚させたようである。ただし、モニス夫妻の間には生涯、子どもが生まれなかった。

 

ポルトガル共和国とリスボン大学

モニスは、1902年7月にコインブラ大学より医学博士号を取得し、1903年には28歳の若さでコインブラ大学医学部の解剖学・生理学教授に就任した。

モニスの両親や親戚は、貴族階級ということもあってポルトガル国王の君主制を支持していたが、モニスは大学時代から共和制の熱心な活動家だった。

学生時代には何度も反君主制のデモに参加して、2度逮捕されて、何日も投獄されたという記録がある。コインブラ大学に着任したばかりのモニスは、1903年、共和制支持を明確に公約に掲げて国会議員選挙に立候補し、当選した。

当時のポルトガル国王カルロス1世は、国内では放漫な財政を行い、それを批判する共和主義者や社会主義者を徹底的に弾圧した。さらに、ポルトガルが占有していた現在のザンビアやジンバブエに相当する植民地をイギリスに譲り渡し、外交面でも失政が続いた。

当時のイギリスは、エジプトのカイロ(Cairo)と南アフリカのケープタウン(Capetown)を鉄道で直結させてアフリカ大陸を縦貫し、さらにインドのカルカッタ(Calcutta)とも横に鉄道で結ぶ植民地「3C政策」を掲げていた。

カルロス1世は、大国イギリスの権威を恐れて易々と要求に屈したため、国民から「弱腰」だと大きな非難を浴びた。さらに、国王の私生活上では「不倫」のスキャンダルが暴かれたため、多くのカトリック信者が激怒した。

1908年2月1日、カルロス1世と家族がヴィラ・ヴィソサ宮殿からリスボンへ向かう途中、数名の急進的共和主義者が馬車を銃撃し、カルロス1世は即死した。その瞬間に即位した長男のルイス・フィリペも致命傷を負って、約20分後に死亡した。

ちなみに、この20分間は「元首の最短在位期間」として知られる。結果的に、腕を負傷しただけで助かった次男マヌエルが即位することになった。

1910年10月3日、共和主義者のデモに国民も加わって一斉蜂起が生じ、国王マヌエル2世はイギリスに亡命した。

10月5日、革命議会で「王政廃止」が決議され、ポルトガル共和国が誕生した。この革命成立により、いわゆる「第一次共和制」が始まったわけである。1911年には新憲法が制定されたが、王政復古を掲げる王党派の反乱も続き、ポルトガル全土で混乱が続いた。

この間、モニスは学界で政治的に非常に上手く立ち回ったらしく、1911年にはポルトガルを代表するリスボン大学医学部教授に就任し、同時に医学部長に選出されている。

彼の着任直後、共和制支持と大学改革を訴える学生が、王党派の警察当局に投獄された。これを政府による「弾圧」だと非難したモニスには、生涯3度目の逮捕歴が付いた。37歳の医学部長になっても、モニスが血気盛んであったことがよくわかる。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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