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全てが「ネット越し」の社会の落とし穴...コロナ対策を失敗させた「過剰可視化」の発想

2022年08月17日 公開

小川さやか(文化人類学者)&與那覇潤(評論家)

 

相手を「負い目」で支配しない人づきあい

【與那覇】小川さんのチョンキンマンションの描写でもう1つ面白いのは、住人たちがお互いに相手の「素顔」を想定しないという考察です。

「あいつを信じるな」のような辛辣な会話がなされても、それは昨日大損して苛立っている「今日のあいつは信用できない」という趣旨で、その人の存在を全否定はしない。つまり人格ではなくあくまで「状態」としてのみ、他人に言及すると。

日本社会でも対面のデイケアではこれは自然な態度で、病気中は心身の調子が日によって変わりますから、「今日はそっとしておこう」というふうにお互い配慮します。

しかしオンラインの評価システムでは逆に、1回の失敗でもその人の全人格を否定し、ブラックリストに載せてキャンセルしてゆく発想が高まっていませんか。

【小川】見えない部分を可視化することで、想像力が減退しているのでしょうね。見えている部分がその人のすべてだと認識する考え方は、とても恐ろしいと感じてしまいます。

暮らしていれば晴れの日も雨の日もあるわけで、チョンキンマンションの人びとはそれをふまえたうえで他者と接していました。配送業者の対応が悪かったといっても、その背景には何か事情があったのかもしれません。彼らは少なくともその1度のケースだけでSNS上で叩いたり、レビューで星1つをつけたりすることはできないでしょう。

ただ、タンザニアの人たちは共感という感情に対して距離を置いています。ヤン・プランパーの『感情史の始まり』(みすず書房)に詳しいですが、いまではマイノリティに共感しなかったり不適切な発言をしたりすると「心の知能指数」が低くて人間として失格の烙印を捺されたりします。

SNSも最初は日常で感情を抑圧された人たちの避難所でしたが、ハッシュタグを用いた運動が起きるようになると感情が体制化されてしまい、流れに即さない人は息苦しいと感じるようになる。

タンザニアの人びとは誰かに共感したり、つねに善人として振舞ったりすることに慎重ですが、それは現実的に不可能だとわかっているからだと思います。

【與那覇】共感は大切でも、それが裏返って「お前は共感が足りない、心が冷たい」のように他人を非難する道具に使われると、おかしなことになりますよね。この点で小川さんの「開かれた互酬性」の概念には、そうした袋小路から外に出るための手がかりを感じました。

互酬性とは通常、「その人に受けた恩は返す」という二者関係でのモラルを指しますが、これは行き過ぎると相手に後ろめたさを負わせたり、「俺に恩を返せよ!」と称したパワハラを招いたりします。

タンザニアの人たちは互酬性を多人数に開く、つまり「昨日はAに世話になっちゃったけど、今日俺もBを助けてやったからチャラだ」といったかたちで処理することで、特定の人とのつきあいだけが本人を拘束しないようになっている。

【小川】重要なご指摘です。というのも私は負い目や権力を発生させないで、いかに気楽でありながら真剣に社会や経済を回せるかを研究のテーマにしているんです。

たとえば、正当な権利であるはずの生活保護を恥ずかしいと感じたり、「世間に感謝をしろ」という人がいたりするのは、直接的な与え手(国)と元の与え手(国民)が異なり、受け手が負い目を返しようがない「再分配」という仕組み自体にも原因があります。

これに対してタンザニアの商人がしているのは、偶然に狩りに成功したので肉を配るといった「分配」に近く、与えたり受け取ったりは偶然であると負い目を曖昧化し、1つ1つのやり取りを可視化しないようにしているからでもあります。

【與那覇】デジタル・レーニン主義と呼ばれるような「ずっとその人を追跡する信用スコア」を導入すると、狩猟スコアが高い/低い人の格差が固定化して、分配による共存の仕組みは壊れてしまいますよね。あえて「可視化しない」ことが柔軟な寛容さを育んでいると。

【小川】そうなんです。「見える化」をすればするほど配るほうも貰うほうも無理がでてくる。なお、先日、歴史学者の松澤裕作さん(慶應義塾大学経済学部教授)とお話ししたとき、江戸時代の村請制(年貢完納の義務などを村が請け負う制度)について教えていただきました。

いわゆる連帯責任制度で、ある意味では個人の借金を曖昧にするメカニズムですよね。ところが、明治になって個々が税金を納めるようになると、「働かざる者食うべからず」という通俗道徳が生まれて、成功も失敗も自己責任に帰結すると考えられるようになった。そんなお話を非常に面白く聞いていました。

 

「後ろめたさ」への忌避が不寛容を生む

【與那覇】久々に元・歴史学者としてマクロな話をしますと(笑)、戦後の日本人にとっての歴史とは、負い目や後ろめたさを「全員で共有する」ためのプラットフォームだったと思うのです。

左派なら丸山眞男の「悔恨共同体」の概念が象徴する、愚かな戦争を止められなかったという負債感情。右派なら三島由紀夫が強く説いた、戦死した英霊に対する申し訳のなさ。隈なく全員が「なんとなくは後ろめたく思う」ことで、お互いに謙虚になれる場所こそが、戦争についての歴史語りでした。

しかし『平成史』(文藝春秋)で描いたように、近年は左右ともに「他の日本人はともかく、俺たちは後ろめたくない!」と高唱するようになった。戦争犯罪の史実を否定したり、逆に海外から寄せられる日本批判に完全に同調したりといった姿勢ばかりが目立ちます。

【小川】後ろめたさを引き受けるのが耐えがたく、強引に消去しているのが現在の日本ということですね。

【與那覇】「誰しも負い目はあるものだ」という発想が社会から消えると、ミクロでもSNSのプロフィール欄などで顕著な「私はこんなに完璧。よって悪い点はありません」といった風潮を招きがちです。

病気や障害のカミングアウトについても、いまはむしろ「明示的に名乗らないかぎり、ケアしてもらえない」といったプレッシャーの裏返しになっていないか、懸念しています。

【小川】パーソナルな情報をどれだけ開示したところで、その人の複雑性をカバーできるはずがありません。一方で、私は『過剰可視化社会』を読んで日本人はむしろ可視化が足りていないのかもと感じたんです。

タンザニアの人たちは自分のことを何でも書いてしまう。皆がSNSに好き勝手に書くので、もはや他者の言葉をいちいち気にしても仕方がないカオスになる。すると面白いことに、今度は逆説的に本格的なコメントを読みたいという欲求が生まれてくるんです。

いま、世界ではSNSでの倫理基準を透明化し、市民社会的・民主的な空間につくり変えようという動きがあります。そうした動きは否定しませんが、私は人間が完璧な機械になれないかぎり、何でも規範化したら失敗するのではないかと思うわけです。

雑多な路上空間と同じで、あまりにカオスだと人びとはそのつどのやり取りに慎重になり、むしろ親切になるのではないかしら。

【與那覇】平成半ばの初期のネットがもっていた、玉石混交のなかから手探りで面白いサイトをみつける感じはまさに露天商的でしたよね。

しかしファクトチェックの流行以降は、あらかじめサイトやSNSユーザーを格付けし、「この指針に従えば『正しい』意見とだけ出会えます」といった態度が主流です。カオスや不透明さを徹底して忌避する、予防的な姿勢が目立ってきました。

【小川】本来、人間って相手の顔をみながら、話すことを変えるじゃないですか。坂部恵が『仮面の解釈学』(東京大学出版会)で述べた通り、主語がなくても伝わる日本語って、「好き、というのは冗談、というのがウソ」みたいに述語に応じて「私」が表れる世界でもあった。

それがいつのまにか最初に主語があり、その主語が言動を律する西欧近代的な主体観に変化してしまった。いまでいえば、SNSで一度自分が立つ位置を決めたら、それをずっと守り続けなければいけないわけです。私には「一貫性の病」に陥っているようにみえてしまいます。

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