2021年02月16日 公開
2022年10月20日 更新
帝都の機能を高度化した関東大震災後の復興は現代日本の足元を支えている。オイルショックがさまざまなイノベーションを生み、オウム真理教事件や9・11は危機管理体制を強化した。危機は「脆弱ではない部分」を「焼け太り」させる。
危機は脆弱な部分に、カタストロフィ(破滅)を生み出す。その語源はギリシア語のkatastroph =「倒す」で、まさに脆弱な部分は倒れる。しかし「脆弱ではない部分」は違う。
クライシス(危機)は、ギリシア語のkrinein =「選別」に語源をもつ。危機は必ずしも破滅に直結せず、まず脆弱な部分とその他を選別する。前者は破滅し、後者は変化する。その変化とは近代化の「加速」だ。
近代化とは“伝統や共同体の崩壊の大きなプロセス”だ。災害による避難のような大規模な人の移動は地域共同体や民俗芸能を破壊する。
一方、若者・よそ者に活躍の場が与えられ、かねてから構想されていたが種々の制約のなかで止まっていた再開発計画が実行に移される。帝都復興も太平洋戦争後の戦災復興も、日本の近代化を加速するうえで不可欠だったことは言を俟たない。
リモートワークや遠隔教育の進化は会議や講義の場の束縛に宿る権威を相対化し、そこに巣くっていた伝統や共同体を空洞化させる。
さらに、テレビ会議の先から子どもの声が聞こえてしまうように、囲い込まれてきたプライベートが解放されつつあるが、この“公的領域による私的領域の審判”もまた近代化の典型的社会現象にほかならない。
アフターコロナを巡る議論は、これまでの社会的危機の直後にもそうだったように、その不透明さにかこつけた空想的誇大文明論が跋扈(ばっこ)することになるだろう。しかし、それに惑わされ無意味な時間を過ごす余裕はない。答えは場の束縛が弱まってしまったいまもなお、現場にあるはずだ。
過剰に悲観する必要はない。そこにはいまより、より効率的でスマートな何かが待っているかもしれない。ただ、当然それは格差拡大と近代化の加速のなかで生まれた犠牲の上に立ち現れるものでもあれば、手放しに楽観すべきものでもない。
更新:11月25日 00:05