2020年07月10日 公開
休日の日中でも閑散とした新宿駅前(写真:PHPオンライン衆知編集部提供)
コロナ禍において巻き起こった、トイレットペーパーの買い占めや自粛警察の出現。”自粛疲れ”は、ウイルスへの恐怖や環境の変化に対して起きたばかりではない、流れるデマに振り回さること、そして、自分の行動が批判の対象になるかもしれない……恐怖心が国民の疲れを加速させたのだ。
人びとはどうして他人の行動に目を光らせ、あたかも警察のように振る舞ったのか。相互行為論の視点からコロナ禍の人びとの行動を改めて考察する(聞き手:『Voice』編集部)。
※本稿は月刊誌『Voice』2020年7月号に掲載された、是永論氏の「『想像』を脱し、データの現実活用を」より一部抜粋・編集したものです。
自粛警察を演じる人びとが、「他者の取り込み」をしていることを説明した。それを考慮したうえで、私たちはコロナ禍がもたらしている状況にどのように対応すればよいのだろうか。
一つは、極度に「他人の立場」を意識しない、ということがある。端的にいえば、メディアやSNSの情報にふれることはそれだけ「他人の立場」に自分を晒すことになる。
いわゆる「自粛疲れ」とは、たんに生活行動が制限されるだけでなく、想像上の「他者」への対応が求められるなかで、自分の行動をどのように定めてよいのかが不確かになってしまうゆえの疲弊であるともいえる。
だからといって、個人が自粛も省みず気の向くままに行動すれば、状況の悪化をもたらしかねない。こうしたジレンマは休業要請にもかかわるものである。
つまり、休業によって個人が損害を受けるとき、その損害は、感染防止としての他人に向けた「立場」について理解されるが、他方で、もし自分だけが休業で損をしていることになったら、結局は他人に出し抜かれるだけなのではないか、という「立場」も意識させる。
日本の場合、外出禁止のような強制的な手段以外で、こうしたジレンマの調整が政治に求められているのだが、現在の行政の対応を見るかぎり、その調整基準は漠然とした「他者への配慮」だけに求められている。
そのような対応では、現実の行動やその利害を調整するような機能を充分には果たし得ず、逆に、人びとの過剰な反応や疲弊も招くことになる。
これに対して、筆者が考える方策は「データの蓄積」とそれにともなう「利得のシステム」の確立である。
この方策の特徴は、他者の存在を想像に留めるだけではなく、現実の他者の全体的な様子を、比率や確率といった数字に表したうえで、個々人が自分の行動との比較に利用可能なレベルにすることだ。
そのためには感染状況に関する詳細なデータはもちろんであるが、社会的な行動に関するデータをより多様なかたちで加える必要がある。現在でも、携帯電話による行動の追跡データがその一例としてあげられるが、それに付随した行動や物資に関するデータが提供されることで、人びとが、他者の状況を、想像を離れた現実として客観的に判断する基準がもたらされるだろう。
この点で、現在の日本政府や専門機関による公的な情報提供のやり方には問題がある。一方で、一般の人びとのデータの利用方法にも課題が残る。たとえば、災害時の避難においても、客観的な判断に資するデータの提供が少ない。
コロナ対策に示された「新しい生活様式」のように、社会的な行動変容を企図する場合でも、具体的なデータが活用される事例も非常に限られている。
今回、リモートワークのほか、教育や行政手続きのオンライン化においてさまざまな問題が明らかになったように、日本人のインターネットを使った情報利用は、データの利用範囲や内容の洗練度からいっても、少なくとも実用に耐えるレベルではなかった。
以前、筆者らが行なった国際比較調査でも、日本におけるパソコンでのインターネットの平均利用時間や、利用内容の多様さは、中国や韓国を含むほかの4カ国に比べ、60代を除くすべての世代において最低レベルの結果となっている。
この結果は、日本国内において、"インターネット上の情報"を"社会的な行動"に結びつけて利用する手段や機会が限られているという証左にもなるだろう。
現在、社会的な行動についてもっとも普及している情報利用は、せいぜい「Yahoo!乗換案内」などの乗車ルートアプリやカーナビゲーション程度だ。しかし、それ以外は、ソーシャルメディアを通じて「他人の立場」をただ「ことば」から想像する以上のことがなされていない。
これでは10代が想像を膨らませて遊んでいた100年前の映画のようなものにすぎないといわれても仕方がないだろう。といっても、筆者は一般の人の情報利用能力(リテラシー)が低いことを批判して、高度なデータ分析をするように促しているのではない。
同様にそのための複雑なデータの提供を行政に要求しているわけでもない。もちろん、リテラシー教育も必要ではあるが、それ以上に訴えたいのは、身近な行動にいろいろなかたちでデータを結びつける機会を確保することである。
たとえば、買い物ひとつをとっても、非常時において実際にパニックで買い占めに走るような人の比率は低い。こういった正しいデータの提供がなされれば、それだけでも充分に行動の基準となるはずである。
しかし、現状では、多様な社会統計が収集され、利用しやすいように開示される機会は決して多くない。人的資源を含めて、統計調査に対する社会的な投資の拡大が今後検討されるべきだろう。
更新:12月04日 00:05