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山極壽一「一神教の争いには、日本的“間”の文化を活かせ」

2020年03月03日 公開
2020年03月03日 更新

山極壽一(京都大学総長)

山極壽一写真:大島拓也

相変わらず混沌とする国際情勢。いかにすれば、紛争を和らげることができるのか。ゴリラ研究の大家であり、京大で総長を務める山極壽一氏は、ゴリラの喧嘩仲裁法にヒントがあるという。さらに、一神教にはない、日本的な「間」の文化について語る。

本稿は月刊誌『Voice』2020年3月号、山極壽一氏の「死と生の『間』にいる高齢者の役割」より一部抜粋・編集したものです。

聞き手:編集部(中西史也)

 

ゴリラの喧嘩仲裁から学ぶ、紛争解決法

――ゴリラと同じ霊長類に属するホモ・サピエンス(ヒト)の世界は、ますます物騒になっています。二度の世界大戦を経験しても、いまや「自国第一主義」を公言する指導者で溢れている。国家の衝突を抑えるために、ゴリラから学べることはありますか。

【山極】争いの仲裁に弱い者が入る手法と大切さを、ゴリラは教えてくれます。

ゴリラの世界で身体の大きいオス同士が喧嘩になったとき、間に入るのは必ずしも強い者ではなく、子供やメスといった身体の小さな者の場合があります。第三者が介入すると、オス2頭は互いに離れ合って、「引き分け」になる。

なぜ2頭のオスは、自分より弱い者の言うことを聞くのでしょうか。そもそも2頭のオスは、喧嘩を続けたら共に大怪我をすることはわかっています。

ただし両者とも面子があるから、振り上げた拳をおろすタイミングをつかめない。そこに第三者が現れると、それを理由に勝敗をつけず引き分けにする。

互いに優劣を認め合ってすぐに勝敗をつけ、強い者しか仲裁ができないサルとは対照的です。

サルのように力の強さがものをいう優劣の序列社会ではなく、ゴリラのように対等な社会の在り方からヒトが学べることは多いでしょう。

――国際政治に当てはめると、大国間の仲裁を中小国が行なうことになりますね。日本を「ミドルパワー(超大国や大国ではないが、一定程度の穏健な国際的影響力をもつ国家)」とするならば、その役割が問われているとも考えられます。

【山極】京都大学の先達である西田幾多郎や今西錦司が指摘したように、日本には「間(あいだ)」の思想が存在します。

それはわが国の風土に溢れていて、里山はその典型です。山や森は「ハレ(非日常)」の世界ですが、里は「ケ(日常)」ですね。その「間」にあるのが里山だといえます。

「ハレ」でも「ケ」でもないその中間が、日本の風景の至るところに見られるのです。

ところが西洋の一神教には「間」がない。インド論理学に、テトラレンマ(四句分別)という概念があります。

これは「AはAである」「Aは非Aである」「AはAではないし非Aでもない」「AはAでもあるし非Aでもある」という四つの問いから構成されます。

前半の2つは「排中律」という「間」を認めない論理であり、西洋的な考えです。彼らになぜ「間」がないかというと、絶対的存在が上にあるから。すなわち、地上にいる人間や動物を唯一無二の神様がすべて支配しているため、「間」をつくれないのです。

一神教的な「どちらかに属すしかない」というゼロサム思考が生んだのが、アメリカを中心とする現在の経済社会ではないでしょうか。アメリカが他国を圧倒するコンピュータ技術も、ゼロかイチかの世界です。

一方、後半の2つは「容中律」といって、「間」を認める東洋的思想です。日本には里山以外にも、男でも女でもない役割として、歌舞伎や宝塚といった文化がある。

日本建築の「縁側」は家の内でも外でもある場所、漫画の元祖となった「鳥獣戯画」は動物でも人間でもない姿が描かれています。日本は対外関係においても、「間」の精神を活かして関わるべきです。

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