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石原莞爾の日記に見えた「満洲鉄道への攻撃構想」

2019年12月24日 公開
2022年02月22日 更新

宮田昌明(文学博士)

 

三月事件と石原莞爾の構想

一方、国内では、浜口首相が狙撃され、重症を負った後の1931年2月から3月にかけ、陸軍内で三月事件と称される狂言的クーデタ計画が持ち上がった。

きっかけは、大川周明という国家主義運動に関わった思想家が、内閣総辞職後の宇垣一成内閣の実現を画策したことであった。

大川は宇垣に面会の上、首相就任に向けた宇垣の虚勢的言辞を取り付けた上で、陸軍幹部の建川美次参謀本部第二部長や小磯国昭陸軍省軍務局長に宇垣擁立のための運動をけしかけたところ、小磯や建川も計画に同調した。

結局、宇垣は放言のみで、何もしなかったが、小磯の命令を受けた永田鉄山軍事課長は、宇垣を首相に奏上する手続きをまとめた三月事件計画書を作成した。計画の存在は満洲事変勃発後に実態以上に誇張されて政界に広がり、様々な余波を引き起こす。

事件は陸軍幹部の軽率、無能を示すものであったが、その背景は、国内改造に対する陸軍内の観念的な期待であった。これに関して石原は、1931年5月の「満蒙問題私見」で、日本の現状で1936年までの国内改造は不可能と批判した。

石原は、それよりも国家を動員して対外発展を進め、状況に応じて国内改造を断行すべきとし、また、軍部が団結して戦争計画を確立し、「謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引する(註2)」 ことは可能とした。

後の満洲事変との関係で問題となるのは、1936年を問題解決の期限としていること、それまでに軍部の意思統一を図るとしていること、その上で謀略によって機会を作るとしていることである。

石原莞爾日記の1931年5月31日に「朝、花谷、今田両氏来り、板垣大佐宅にて謀略に関する打合せ」「軍主動の解決の為には満鉄攻撃の謀略は軍部以外の者にて行ふべきもの也(註3)」 との記述がある。後の柳条湖事件と同様の、満鉄を利用する謀略がこの時点で構想されていた。

とはいえ、石原は1936年を念頭に、軍全体の行動を想定していた。また、謀略は軍部以外の者で行うとされていた。それは、張作霖爆殺事件の結果を意識したものであろう。

後の柳条湖事件はこの時以来の検討に基づくものであっても、石原はこの時点でも9月の謀略決行を想定してはいなかったのである。

 

(註1)神田正種「鴨緑江」『現代史資料』7〈満洲事変〉みすず書房、1964年、466頁。
(註2)角田順編『石原莞爾資料──国防論策篇』原書房、1967年、76-79頁。
(註3)同21頁。

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