だが不幸なことに、当時の日銀の政策思想はもはやマネタリスト的なものではなく、いわゆる日銀理論へと変質していた。
1980年代後半に貨幣量重視の金融政策を放棄して以降の日銀では、次第に「〔金融〕緩和が十分かどうかは、金利が十分下がっているかどうかにほとんど的を絞って判断していけばいい」という考え方が支配的になっていった(「金融不況を語る〈4〉日本銀行理事福井俊彦氏──『銀行救済利下げ』ない」『日本経済新聞』朝刊、1992年12月26日)。
原田[1992]が指摘するように、日銀は以前のような貨幣軽視の金融政策思想に戻ってしまったわけである。日銀は、M2+CDの上昇率の低下はバブルの反動の当然の結果に過ぎず、「マネーサプライ水準が過小であるとは言い難い」と主張し、何ら行動に移ろうとしなかった。
1993年になると、フリードマンは日銀がM2+CDの上昇率の急低下を容認していることに強い懸念を表明し、日本経済が戦後最悪の不況を迎えつつあると警告を発した。
「あの頃〔1980年代末〕の年間12パーセントから14パーセントに達した通貨供給量の増加率が今や0パーセントかマイナスといった状態でしょう。……日銀は……大きなミスを犯したと思いますね。
今日の通貨供給量の動向を見ていると、日本経済はさらに深刻な景気後退に向かいつつあると判断せざるを得ない。……おそらく日本は、戦後最も厳しい不況にあるのではないか。私の判断が間違いであればいいのだが……」
不幸にして、フリードマンの懸念は、またしても的中した。やがて明らかになるように、バブル経済の崩壊は長い日本経済停滞の序曲にすぎなかったのである。
フリードマンの期待に反し、日銀は、不況の深刻化にもかかわらず、大胆なハイパワード・マネー拡大に踏み切ることはなかった。1991‐1999年のハイパワード・マネーの成長率は5.2%にすぎず、1980‐1990年の平均7.9%を大きく下回っている。
貨幣の伸びの低下を容認し続ける日銀に、フリードマンは次第にいら立ちを強めていった。
1994年のインタビューでは、日銀の金融政策の失敗がバブルとその急激な崩壊を招いたとし、「これは遠目の批判かもしれないが、日銀は誤りを正すのが遅くて、そのためにリセッションを長引かせ、深刻なものにしてしまったように思われる」と述べている。
1996年には、フリードマンは松下新日銀総裁に期待を寄せつつ、「1929年以降のFRBの行動を再現している」と三重野総裁時代の日銀の方針に強い不満をぶつけている。
1997年の論説になると、フリードマンは「日本経済の現在の危機的状況を招いた責任の大半は、日本銀行によるこの10年間の的外れな金融政策にある」と厳しく批判するに至った。
フリードマンは、日銀の1990年代の金融政策に対して1929‐1933年のFRBの金融政策を批判したのと同じ「的外れな(inept)」という形容を用いている。
ルーブル合意以前の金融政策を絶賛していたフリードマンの失望と憤りが窺われる言葉である。
更新:11月22日 00:05