2019年10月17日 公開
2023年01月19日 更新
歴史に大きく刻まれた「フランス革命」は、これ以後の世界史において、あらゆる革命の基本になった。社会主義はもちろん、現在の日本における「改革」志向もこの革命に通じていると言える。
革命勃発直後の1790年に、市民革命の代表的な事例として賞賛されたフランス革命に対して、大批判を展開し世界的な大ベストセラーとなった本をご存知だろうか?
それがイギリスの政治思想家であるエドマンド・バークにより1790年に上梓された『フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France)』である。
同書は当時のアメリカ大統領のトマス・ジェファーソンをはじめとする各国首脳から「悪書」との評価を受けながら、結果として現代にまで読みつがれる"名著"となったのだ。
本稿では、評論家の佐藤健志氏による編訳書である『【新訳】フランス革命の省察』より、なぜ"キワモノ本"が時を超えた名著となったかを解説した一節を紹介する。
※本稿はエドマンド・バーク著/佐藤健志編著『【新訳】フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』より一部抜粋・編集したものです。
『【新訳】フランス革命の省察』の原著『フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France)』は、1790年11月1日にロンドンで刊行された。著者のエドマンド・バークはアイルランド生まれの政治家で、文人としても知られた人物である。
フランス革命が勃発したのは1789年7月なので、原著が刊行された時点で1年3カ月あまりが経過している。ただし国王ルイ十六世がギロチンにかけられたのは、刊行から2年以上たった1793年1月のことであり、王妃マリー・アントワネットの首が落ちたのは、さらに9カ月後、同年10月のことであった。
革命そのものは、原著刊行のじつに9年後、1799年11月になって終結する。これはナポレオンの政権奪取によるものだが、動乱がほんとうに治まるには、ロシア遠征に敗れたあと、ナポレオンが最終的に没落する1815年まで待たねばならない。
『フランス革命の省察』が扱ったのは、革命の初期段階のみだったのである。なおエドマンド・バークは1797年7月に死去しており、ナポレオンの栄枯盛衰はもとより、革命の終結すら見ることはなかった。
普通に考えれば、これは同書がフランス革命の全体像をとらえていないことを意味しよう。
しかもオックスフォード大学の近代史専門家レスリー・ミッチェルが、同大学出版会より刊行された『フランス革命の省察』に付した解説で述べるところによれば、この本は当時、ベストセラーになったにもかかわらず、必ずしも高い評価を得てはいない。
バークはフランス革命のあり方を激烈に批判しているが、彼は同国の政治に詳しいほうではなく、革命下のパリを訪ねたわけでもないのだ。
執筆にあたっては、革命に関する資料を(フランス国内で出回った文書も含めて)丹念に集めたようだが、それでも同書には誇張や偏向と受け取られても仕方のない記述はもとより、事実誤認の箇所まで見受けられる。
フランス革命がヨーロッパ中の関心を集めていたこともあって、これらの点はすぐに指摘された。あまつさえバークは、フランス革命に先行する形で生じたアメリカ独立革命(1776年)については、宗主国イギリスの政治家であるにもかかわらず、支持する立場を取っていたのである。
当時の有力政治家による『フランス革命の省察』評も、ミッチェルはいくつか紹介している。まずはアメリカ独立宣言の大部分を起草し、第三代の大統領にも選ばれたトマス・ジェファーソン。
「フランスでの革命など、バーク氏の豹変ぶりに比べれば驚くに足らぬ」
イギリス首相で、革命の過激化を警戒しつつも、長年のライバルだったフランスで王政が崩壊したことを喜んでいたウィリアム・ピット。
「この罵倒は芸術的だ。感服させられる点は多いが、賛成できる点は何もない」
やはりイギリスの政治家で、バークと個人的にも親しかったチャールズ・フォックス(彼はフランス革命を支持していた)。
「どうにも趣味の悪い本だ」
バークはフランス革命にキレているのではなく、ほんとうにイカレているのではないかとする見解すら一部で出回った。1790年代のイギリスでは、誇張された過激な主張をすることを「バーキズム」と呼ぶのが流行(はや)ったそうである。直訳すれば「バーク主義」だが、今風の日本語なら、さしずめ「バークる」であろう。
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更新:11月22日 00:05