2019年10月17日 公開
2023年01月19日 更新
社会を急速かつ徹底的につくりかえようとする試みは、以後の「革命」の基本形となる。全体主義や社会主義はむろんのこと、明治維新をきっかけとしたわが国の近代化・欧米化や、敗戦後にわき起こった民主主義礼賛(らいさん)なども、急進主義の影響を抜きには考えられない。
いや、近年の「改革」志向や「政権交代」ブームとて、遠くフランス革命に通じている。2000年代前半、改革の旗手となった首相・小泉純一郎が「古い自民党をぶっ壊す」と宣言したことや、2009年、当の自民党を下野(げや)させることで首相となった鳩山由紀夫が、「博愛」ならぬ「友愛」という言葉を好んだことは、この点で象徴的と評しえよう。
しかるに「正しい目標をめざすかぎり、社会の変化は抜本的であればあるほど良く、また急速であればあるほど良い」という発想は、次の四つの前提のうえに成り立つ。
(1)人間は、社会のあり方を望ましくする方法論を適切に考案する理性、およびそれを確実に実現してゆく能力を持っている。
(2)社会を望ましくする方法論が二つ以上存在する場合、人間は個人的な利害関係や感情にとらわれることなく、どちらが良いかを冷静に判断できる。
(3)右二つの前提は、社会全体で成立している。言い換えれば、みずからのあり方を望ましくしようとすることにかけて、社会は首尾一貫した単一の意志を持っていると見なして構わない。
(4)社会のあり方を変えることに伴うコストや副作用は、変化のスピードを上げたからといって顕著に増大することはない。
まさしく「善は急げ」だが、問題はこれらの前提が、どれ一つとして妥当とは言いがたいことである。
ここで引き合いに出されるべきは、フランス革命が勃発する直前に刊行された小冊子『第三身分とは何か』であろう。「第三身分」とは平民のことであり、「第一身分」の聖職者、「第二身分」の貴族に対比してこう呼ばれる。
著者のエマニュエル・シエイエスは、平民の生まれから聖職者となった人物ながら、第一、第二身分が(平民を抑圧することで)不当に特権を享受していると批判、万人の平等を訴えた。すなわち同書は革命に向けたマニフェストとも呼ぶべきものにしろ、シエイエスでさえ先に挙げた四つの前提を全面的には肯定できていない。
彼は冒頭、望ましい社会のあり方を構想する人間を「哲学者」、その構想を実践する人間を「為政者」と定めた。哲学者の責務は、自由で純粋な思考を駆使して真理を極限まで追求し、反発や無理解を恐れずにそれを広める──要するに知的な急進主義に徹することとされる。
ところが為政者の責務は、正しい方向性から逸脱しないよう注意しつつ、一歩一歩着実に進んでゆく──つまり「急がば回れ」の姿勢を取ることとされるのだ。
しかもシエイエスは、フランス国民全体が、個々の細かい利害を超えた共同の意志を持っているとしたものの、これは聖職者と貴族が平民を抑圧しているとする主張と噛み合わない。
このため彼は、人口の大多数を占める平民こそ「国民」そのものだと述べ、聖職者と貴族を(進んで平民の味方に回ろうとする者を除いて)「非国民」のごとく扱うことにより、やっと議論の整合性を保つ始末であった。
更新:11月22日 00:05