2019年08月30日 公開
2019年08月31日 更新
※中国・北京の紫禁城にて(撮影:編集部)
19世紀にヨーロッパで本格化した「国民国家」誕生の動きは、アジアやアフリカにも多大なる影響を及ぼした。世界史はまさに一大転換期を迎えたのである。
※本稿は、関眞興著『19世紀問題』(PHP研究所)より、一部抜粋・編集したものです。
19世紀の列強の動きから、アジアやアフリカの歴史の時代区分を考えるのは、地域差や歴史風土の違いも大きいため、やや無理も出てきます。
各国がいかにヨーロッパの近代に向き合ったかという姿勢を比較してみるのが興味深いかもしれません。
ヨーロッパに一番近い大国であったオスマン帝国ではヨーロッパのような近代化が図られましたが、ヨーロッパの近代が否定した政教一致の原則を堅持するイスラーム教がネックになり、失敗に終わりました。
しかしこの国でも革命派が育ち、第一次世界大戦後に政教分離を実現しました。
ムガル帝国が実質的な権力を失っていたインドは、すでに18世紀からイギリスが徐々に支配地域を広げており、最終的には1877年にインド帝国というイギリスの植民国家が成立します。
宗教に絡むインド社会独特の問題はさておき、その支配のためイギリスがインドで英語を強制したことが、今日インドを世界最大の民主主義国家にしているのは、歴史の皮肉というものでしょうか。
「眠れる獅子」といわれていた清帝国はアヘン戦争から日清戦争まで、信じられないような負け戦が続き、改革の必要性が認識されます。
しかし、それは成功しないままに1912年、中華民国の成立を見ます。しかし2000年以上続いてきた体制の変革は簡単ではなく、今日なお問題を抱えています。
アフリカ大陸の19世紀は大きく前半と後半に分けられます。
19世紀の到来と共に長い奴隷貿易の時代は終わりましたが、とくにブラックアフリカの内部については、白人たちはまったく無知でした。
そのため、19世紀の前半、探検の時代で幕を開けます。そして後半にな
ると列強の争奪戦になるのです。
そして最後に日本です。日本は1868年の明治維新まで、アジア諸国と同じ状態でした。
しかし、その後の改革が目覚ましかった。内実はともかくとして、日清戦争・日露戦争と勝利し、列強の一員にのし上がっていきました。
そして、地政学的に助けられたともいえますが、第一次世界大戦では戦勝国になりました。
このような幸運が、日本人を慢心させ、第二次世界大戦で大きな試練を受けることになりました。
更新:11月22日 00:05