2019年04月28日 公開
2020年07月21日 更新
アメリカの“ハイテク企業の聖地”ともいえるシリコンバレーでエンジニアとして働く酒井潤氏。彼はもともと、大学日本代表に選出されるほどサッカー一筋の人生を歩んできた。何が酒井氏の人生を変えたのか。日米の働き方の違いとは。時代の最先端を走るエンジニアが語る。
取材・構成:中﨑史菜
※本稿は『Voice』5月号、酒井潤氏の「なぜシリコンバレーで働くのか(上)」を一部抜粋、編集したものです。
現在私は、ビッグデータの解析ソフトを開発するアメリカのSplunk,Inc(スプランク)という会社にエンジニアとして勤めています。日本ではあまり知られていませんが、アメリカ給与ランキングで第4位にランクイン(2017年現在)している企業です。
アメリカ生活は今年で13年目になりました。最初はハワイで起業し、その後、シリコンバレーで日本企業が起こしたスタートアップ(新しく設立された会社)に転職するも、リーマン・ショックの影響で倒産。
米国NTT MCL(現・NTTi3)を経て、2012年より、前述のスプランクに勤務しています。
さらに仕事の傍ら、ユーチューブやユーデミー(eラーニングのプラットフォーム)で投資とプログラミングの講師としても活動中です。
こうした経歴を語ると、「帰国子女で英語がペラペラだったんでしょう」「学生時代からプログラミングを徹底的に勉強してきたに違いない」と思われるのですが、大学までサッカーのことしか知らない“サッカーバカ”でした。
同志社大学神学部にサッカー推薦で入学して以来、サッカー漬けの毎日。大学日本代表にも選ばれ、2001年のU21の東アジア競技大会で金メダルを獲得しました。プロになる選択肢もありましたが、左膝靭帯を断裂してしまい断念。
そのとき、教授にいわれた「今後はITと英語ができれば食っていけるよ」のひと言で、北陸先端科学技術大学院大学で情報科学の修士を取得するに至りました。
その後、「iモード」全盛期のNTTドコモに勤めました。海外志向が強かったわけではなく、ドコモにいればいつか駐在で海外に行けるかな、という程度の感覚です。
しかし、Windowsモバイル関連のプロジェクトに参画し、米国マイクロソフトのエンジニアと台湾HTC社のエンジニアと一緒に仕事をしたのが、人生を変える契機になりました。
マイクロソフトから来たエンジニアは、もちろん英語を喋りますが、台湾から来たエンジニアも英語が流暢。聞くと、社内のコミュニケーションは英語だというんです。
そのとき、ドコモ側にだけ通訳がいることにショックを受けました。しかも、通訳されるITのレベル自体も高くて、ダブルでショック。このまま日本にいたら世界に置いていかれるかもしれない、という危機感を感じたんです。
更新:11月21日 00:05