2019年02月13日 公開
2019年02月22日 更新
もちろん、ライヴの撮影それ自体もきわめて戦略的に行われている。
ステージ上のフレディと、彼のパフォーマンスに熱狂する人々のショットが効果的に配置されており、それがフレディのイメージを「神話化」することに一役も二役も買っている。
「神話化」が言い過ぎであれば、「伝説化」でも構わない(実際、ライヴ前の練習場面でフレディは、自分が「伝説」になることを予言的に口にしている)。
スタジアム内のショットは、観客を群衆として捉らえたショットと、個々の観客の顔を(相対的に)アップで捉えたショットがバランスよく配されている。
こうすることで、大勢の人々が熱狂していることを示すと同時に、その熱狂している大衆の一人ひとりが具体的な存在であることを印象付けているのだ(このシーンではCGIの技術によって数万人の観客を作り出しているが、実際にエキストラとして参加していたのは120人ほどである)。
また、映画は、このシーンで最初にあらわれる観客席のアップのショット内に黒人女性を置いて、政治的正しさをアピールすることも忘れていない。
多民族の祭典であるオリンピック精神に倣っているといったら牽強付会が過ぎるだろうか(1936年のベルリン・オリンピック開催に際しては、ナチスでさえ国際世論に配慮してユダヤ人迫害政策を一時的に緩和しており、リーフェンシュタールが監督した『オリンピア』[1938年]には黒人選手の活躍も記録されている)。
ステージ上を捉えたショットで興味深いのは、観客席のただなかからロー・アングルで仰ぎ見るように撮影されたショットの存在である(このようなショットはライヴの記録映像には存在しない)。
偶像化したい被写体を仰角で捉える構図は、『意志の勝利』を通してリーフェンシュタールがヒトラーに割り当てたものである。
ライブ・エイドの最後に「伝説のチャンピオン」を熱唱したフレディは、劇中のスタジアムの観客のみならず、それを見ている映画の観客まで虜にし、自身のイメージを神話化するための「歴史戦」に見事に勝利してみせたのだ。
しかし、そうであるとして何が問題なのだろうか。クイーンの伝記的事実に基づくとはいえ、『ボヘミアン・ラプソディ』はあくまでフィクションとして作られているのだから、劇的効果を高める脚色があったとしても特に責められるいわれはないではないか。
<次の記事に続く>
更新:11月22日 00:05