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吉見俊哉 AIは「日本100年の計」を設計できない

2018年12月28日 公開
2024年10月28日 更新

吉見俊哉(東京大学大学院情報学環教授)

現状を疑い、批判する力

このように、歴史が技術的なAIの予測の範疇を超えているとすると、私たちはいかに日本の100年先までを設計できるのだろうか。

答えは簡単で、私たち自身が、外からの傍観者としてではなく、内部の主体として歴史の中に身を置き、未来に賭けることによってである。

そしてこの未来に賭ける知力を身に付けるには、文系的な知識や思考法の習得が大変重要な意味をもつ。

そもそも学問の有用性には2通りある。

1つは、目的に対して有用な手段を提供するもの。手段的な有用性の知だ。この知は、目的を達成するために必要な技術、ノウハウを開発するもので、工学が得意な分野である。

もう1つは、目的、価値そのものを創出する、価値創造的な有用性の知。私たちがいま当然と思っている価値を批判し、それとは異なる価値の基準を見つけ出していく知で、概して文系的な知ということができる。

歴史が非連続なものとすると、いくら現在を延長していっても、未来には辿り着けない。

現在の延長線上で「未来はこうなる」と予測し、その未来のために必要な技術の開発に励んでも、20年、30年という時間のなかでは必ず非連続が生じる。

手段的な有用性は、目的が変わらなければ有用だが、その目的が変化すると途端に役に立たなくなる。1990年代に日本の家電メーカーが熱心だったプラズマテレビとか、その前のビデオテープの規格競争が好例だ。テレビ時代の先にどんな情報社会が来るのかについての想像力が欠けていた。

誰しもが当たり前だと思っている価値観、こうなるだろうと思われている前提を正しく疑い、技術が社会を変える以前に、社会の根底的な変化が技術の前提を変えてしまうことに、日本人はもっと注意深くなるべきだ。

これは、AIという魔法の箱に自分たちの未来を託してしまうのとは正反対の方向性だ。

そして、当たり前を正しく疑うためには、異文化には自分たちとは違う価値観があり、いまとは違う当たり前が生きられていた歴史があったことを具体的に、深く知っていなければならない。それなしには現状を内側から相対化することはできない。

そこで求められるのが文系的な知だ。そこで日々何が学ばれているかというと、まさにこの常識を疑う方法なのである。むしろ、そればかりをやっているといっても過言ではない。

人類学者であれば、異文化の社会に行って、その社会で「当たり前」と思われている価値観の成り立ちを考察する。

歴史学は、いまの「当たり前」が通用しなかった時代の「当たり前」と、そこからの長い変化の過程を学んでいく。

文学や哲学は、同時代の「当たり前」をちっとも「当たり前」と思わなかった人びとの深い思考を追体験していく。そうやって、異文化や過去や芸術家の「当たり前」ではない思考を学んでいるのだ。

つまり、文系の学問を究めれば究めるほど、現在は当たり前とされるものがちっとも当たり前ではなく、それどころか奇妙なものにさえ思えるようになってくる。

そういう知性を身に付けることが、現状を疑い、批判し、違う視点や価値観から物事を捉えたり、物事の別の可能性を想像したりすることにつながっていくのである。

文系の知は、そうした力をトレーニングする。100年の計をデザインするのが政治家か、官僚か、学者か、企業家かはわからない。しかし、文系的な知を身に付けている人でなければ、百年先の未来をデザインすることなどできない。

5年先はAIでも予測できる時代が来るかもしれないが、100年先を、常識を超えてデザインできるのは、「当たり前」を疑う方法を身に付けた人間なのだ。

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