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聴くたびに涙があふれるピアノソナタ

2018年07月26日 公開
2023年05月24日 更新

百田尚樹(作家)

表現能力が楽器を追い越した

そして、最後の第5変奏曲である。私はこの変奏曲を聴くと、ゲーテの『ファウスト』の最後の「神秘の合唱」を連想する。過酷な運命に翻弄されながら、生涯にわたって激しい闘争を繰り広げたベートーヴェンの魂が、今ゆっくりと天使たちに誘われて、天上の世界へと昇っていく――。

自分が大袈裟なことを書いているのは百も承知の上である。しかし私にははっきりとその光景が見える。

歌詞のない音楽を聴いて涙を流すことは滅多にない。しかし32番ソナタは数少ない例外の一つである。私にとってこの曲は音楽を超えた何かである。

この曲はこの第2楽章で幕を閉じる。秘書のシントラーに「なぜ第三楽章を書かないのですか」と訊かれたベートーヴェンが、「時間がなかった」と答えたのは有名な話である。もちろん、これは彼の皮肉である。

この曲を聴けば、第2楽章の後には、もう何の音も必要ではないということがわかるだろう。

32番ソナタを書いた後、ベートーヴェンは「ピアノという不完全な楽器は、これからも多くの作曲家を苦しめるだろう」という言葉を残している。生涯にわたってピアノを愛し、それに全幅の信頼を寄せていたベートーヴェンだったが、ついにその表現能力が楽器を追い越してしまったのだ。

この後、ベートーヴェンは5年生きて、最後の交響曲「第九」や「ディアベリ変奏曲」、五つの弦楽四重奏曲などの傑作を書くが、ピアノソナタだけは書こうとはしなかった。

 

推薦盤は、ポリーニ、シュナーベル、バックハウス、グルダ……

前述したように私はこの曲を偏愛していて、CDとレコードを合わせて100枚以上も持っている。こんなことは何の自慢にもならないが、それだけ私にとっても特別な曲であるということだ。100枚以上も聴いているだけに、推薦盤を挙げるのにも苦労はしないだろうと思われるかもしれないが、この曲に関しては当てはまらない。この素晴らしい曲に関して、演奏の良し悪しなどはどうでもいいように思うというのが本音である。

しかしそれではあまりにもつっけんどんなので、いくつか私の好きな演奏を挙げる。

マウリツィオ・ポリーニの演奏は私にとっては天衣無縫の演奏に聴こえる。第1楽章の激しさ、そして対照的に第2楽章の静謐さ―すべての音が完璧無類に弾かれている。この演奏を「無機的」とか「表情がない」と非難する評論家がたまにいるが、どんな耳を持っているのかと言いたい。これほど感情豊かな演奏はちょっとない。

80年も前の録音で、音は恐ろしく悪いが、アルトゥール・シュナーベルの演奏も素晴らしい。第2楽章はポリーニに優るとも劣らない。ヴィルヘルム・バックハウスの演奏は淡々とした演奏だが、感動は深い。フリードリヒ・グルダも何種類か録音があるが、いずれも最高の演奏だ。

他にもヴィルヘルム・ケンプ、アルフレート・ブレンデル、スヴャトスラフ・リヒテル、ルドルフ・ゼルキン、ルドルフ・ブッフビンダー、ジャン・ベルナール・ポミエなど、「至高の演奏」とも言えるCDが山のようにある。要するに、どんな演奏を聴いても、最高級の感動を味わえる曲ということだ。

 

※本記事は百田尚樹著『クラシック 天才たちの到達点』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです

著者紹介

百田尚樹(ひゃくた・なおき)

作家

1956年大阪生まれ。同志社大学中退。人気番組「探偵!ナイトスクープ」のメイン構成作家となる。2006年『永遠の0』(太田出版)で小説家デビュー。09年講談社で文庫化され、累計450万部を突破。13年映画化される。同年『海賊とよばれた男』(講談社 単行本12年、文庫14年)で本屋大賞受賞。著書に『至高の音楽』(PHP研究所 CD付単行本13年、新書15年)、『大放言』(新潮新書15年)、『カエルの楽園』(新潮社単行本16年、文庫17年)、『鋼のメンタル』(新潮新書16年)、『雑談力』(PHP新書16年)、『逃げる力』(PHP新書18年)、『クラシック 天才たちの到達点』(PHP研究所 CD付単行本18年)など。

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