2015年12月25日 公開
2023年05月24日 更新
『至高の音楽』(PHP新書)より
私がクラシック音楽を真剣に聴き始めたのは19歳の頃だ。以来、30数年、ほぼ毎日のように聴いている。学生時代のアルバイト代のほとんどはLPレコードとコンサートチケットに変わった。昭和50(1975)年当時レコードは新譜で2400~2600円、廉価版で1200~1500円くらいだった。学生バイトの時給が500円以下だったから、新譜を買うには5時間以上働かなければならなかった。平成の今はクラシックCDの輸入盤はバナナの叩き売り状態で、50枚入り5000円というのも珍しくない。その昔、レコード屋で1時間も迷って買った同じ録音が100円ショップで売られているのを見ると、何とも言えない複雑な気持ちになる。
2006年に亡くなった父がクラシック音楽のフアンだったから、小さい頃からよく耳にはしていた。しかし中学時代はフォーク、高校時代はハードロックに夢中になっていた私はクラシック音楽を一度もいいと思ったことがなかった。200年も前の音楽を有難がるのはおかしいのではないかとさえ思っていた。
そんな私がクラシックを聴くことになったのは、大学1回生の夏にアルバイトで稼いだ金でオーディオセットを購入して下宿に置いたことがきっかけだ。実家に帰省した折、クラシックも1つくらいダビングしてみようと1枚のレコードを手に取ったのだが、それがルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の第3交響曲「エロイカ(英雄)」だった。
レコードのA面に1、2楽章、B面に3、4楽章が入っていたので、60分テープのA面とB面に同じ楽章を入れようとダビングを開始した。ところが第2楽章が終わる直前でテープが終わってしまった。テープの冒頭を無駄に送りすぎたと反省して、もう一度挑戦した。しかしまたもやあと数秒というところでテープが終わってしまった。意地になった私は1、2楽章の間の空白の時間にテープを一時停止して再度挑戦した。しかし何ということか、またもや2秒はど足らない。どうやらこの曲は最初の2つの楽章が長いらしい。
仕方なく90分テープの片面に全曲を入れようとテープを交換した。ところが全曲は45分にはわずかにおさまらなかった。それで90分テープのA面に3楽章までを入れ、B面に終楽章を入れて、ようやくダビングを終了した。
結局、「エロイカ」をカセットに入れるのに連続して5回も聴くはめになった。ダビング中はソファに寝転がっていたが、そのうちに暇なのでライナーノーツを読んでみた。ライナーノーツというのは、レコードジャケットの裏に書いている解説のことだ。
クラシックの楽曲説明を読むのは生まれて初めてで、解説によると第1楽章はソナタ形式とあったが、もちろん意味不明。提示部がどうの展開部がどうの再現部がどうのという説明があったが、何のことやらちんぷんかんぷんである。ところがダビングの失敗で何度も同じ部分を聴くうちに、「ああ、これが展開部か。なるほどこれが再現部か」とおぼろげながらわかるようになってきた。はじめはどこが頭やら尻尾やらわからなかった曲が、繰り返し聴くことでだんだんと全体像が見えてきたのだ。
そして――その時は不意に訪れた。それまで幾度聴いても何も感じなかった私の心に、突然、すさまじい感動が舞い降りてきたのだ。「なんや、これは!」と思った。
雄渾な第1楽章、悲壮な第2楽章、来るべき戦いを予感させる第3楽章、そして激しい闘争と輝く未来を思わせる第4楽章。計50分近い曲が目の前に全貌を現したのだ。
それまで霧の中に隠れていて何も見えなかった巨人が目の前に立っていた。私はその偉大な姿をただただ呆然と見つめているだけだった。これが、私がクラシック音楽に目覚めた瞬間だった。今までも音楽で感動したことはいくらでもあった。しかしベートーヴェンの感動は、これまで一度も味わったことのないほど、激しく、深いものだった。
それからは狂ったように家にあるベートーヴェンのレコードを聴きまくった。最初の1回は聴いてもほとんど感動しない。しかし繰り返し繰り返し聴くうちに、「エロイカ」の時と同じように、徐々に霧が晴れていき、ある瞬間、目の前に素晴らしい世界が広がるのだ。
実はこの何度も繰り返して聴くということがクラシック音楽の1つの壁であり、ポイントである。歌謡曲やポップスは1曲が3分前後。しかも同じメロディーで歌詞が3番まであるから、正味のメロディーは1分前後だ。つまり2、3回も聴けばほぼわかる。
それに対してクラシック音楽は長い曲が多い。交響曲や協奏曲、それにピアノソナタだと30分前後は当たり前。中には1時間を超える曲も珍しくない。オペラなどは3時間以上はざらにある。2回や3回聴いたくらいで全貌を掴むことはとてもできないのだ。ダビング失敗というアクシデントで、50分もかかる「エロイカ」を連続して5回も聴いたことが、私をクラシックの世界へ誘い込むきっかけとなった。その意味でもベートーヴェンの第3交響曲「エロイカ」は私にとって特別の曲である。
その時の演奏はヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のもの(62年録音)。今、私の手元に「エロイカ」のCDは100種類以上あるが、このカラヤンの盤には今も愛着がある。
「エロイカ」はベートーヴェンにとっても特別な曲だった。晩年、第9交響曲を作る直前、ある人に「これまで作った曲の中で一番素晴らしい交響曲は?」と訊かれて、ベートーヴェンは「『エロイカ』です」と答えた。質問した人は「第5(運命)ではないのですか?」と訊き直したところ、ベートーヴェンは「いいえ違います。『エロイカ』です!」とはっきり答えたという。私の好きな逸話である。
更新:11月23日 00:05