2018年04月18日 公開
2022年10月27日 更新
竹中 実はこの原点は明治維新後の大久保利通に遡ると思います。
明治新政府の発足早々、大久保は岩倉使節団の副使節団長としてアメリカとヨーロッパを回っています。
実はそのとき、ドイツでビスマルク首相の自宅に招かれているんです。そこでビスマルクは、大久保たちを相手に熱弁をふるったと言われている。曰く、ドイツというのは、小国プロイセンを中心としてようやく統一された国家であるわけです。
しかしヨーロッパではイギリスとフランスが先行している。ドイツが彼らに追い付くためには、上からの近代化じゃないとダメだ、と。
つまりイギリスやフランスでは、ブルジョアジーが育ち、啓蒙思想が育ち、それで市民革命が起きて近代化が進んだわけです。しかしドイツとしては、そんなプロセスを待っていられないと。そこで上からの近代化が必要と説いたんです。
大久保は、ビスマルクの話にすっかり感化されたらしい。帰国後に内務省を作って初代の内務卿に就任すると、殖産興業を徹底しながら上からの近代化を強引に推し進めていくわけです。
そのために内務省の中には警察も入れました。時には警察権力を使ってでも、国民に言うことを聞かせようとしたんですね。
だから大久保は日本の近代化にたいへん貢献したことは間違いありませんが、庶民からはすごく恨まれたそうです。
それで結局、47歳の若さで6人の士族にめった刺しにされた。これがいわゆる「紀尾井坂の変」です。いかに恨みを買っていたかということでしょう。
更新:11月23日 00:05