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日本にワールドカップをもたらした男~広瀬一郎の生涯~

2017年10月31日 公開
2022年03月01日 更新

吉田望(nozomu.net代表)

日本にワールドカップをもたらした広瀬一郎

2018 FIFAワールドカップ・ロシア大会に向けた予選が各地で行なわれ、続々と出場国が決定している。日本も8月に6大会連続6度目となるW杯本大会出場を決め、国内で大盛り上がりを見せた。振り返れば、2002年の日韓共同開催を機に、日本のサッカー人気は急上昇したように思える。その2002年FIFAワールドカップ招致に尽力した「立役者」こそ、広瀬一郎である。

広瀬は1980年に大手広告代理店の電通に入社、ワールドカップ招致などに尽力したスポーツコンサルタントの第一人者だった。電通退社後も、Jリーグ経営諮問委員、経済産業研究所の上席研究員を務めるなど、日本のスポーツ文化の発展に大きく貢献したが、今年5月2日に惜しまれつつもこの世を去った(享年61歳)。

本稿は、広瀬と東京大学での学生時代、電通勤務時代の苦楽を共にした吉田望氏が、亡き友人に思いを捧げるとともに、広瀬一郎が果たしたスポーツビジネスへの貢献を詳細に綴ったものである。

 

「プロデューサー」としての萌芽

畏友広瀬一郎が死去して半年。その追憶は日が経つごとにそのぶん、若広瀬一郎氏返っていくようだ。広瀬の人生は華々しく性急で、そこにはつねに、喧騒と塾考、鋭さと鈍感さ、正論と矛盾、親切心と敵愾心などが、共存していた。

私は、広瀬とは東大駒場時代に知己を得て、1980年に電通同期入社、2000年に電通をほぼ同時に退社、その後は自営業を始め教員を務めるなど、人生の約3分の2において、彼と妙に軌跡がダブった。いまここに彼の人生のあれこれ、成し遂げたこと、および成し遂げられなかったことを書く機会をいただいたことは、光栄である。

※※※

彼の人生の通奏低音(バロック音楽などにおける低音の旋律)は、サッカーであった。サッカー名門校の静岡県立藤枝東高等学校での短いサッカー部経験のあと、東大のサッカー部、また電通でもサッカー部に入部した。

ちなみに広瀬のポジションは、フォワード。リフティングなど足技は器用であったと聞く。チームメイトにパスを出す絶好機でも、強引にドリブルシュートに持ち込んではインターセプトされる(ボールを奪われる)ことで有名であり、それは還暦に至っても変わらなかった。

東京大学教養学部に入学後、駒場寮という古い二階建ての木造宿舎で暮らした。共同生活による親しい交友が育まれ、青春を謳歌した。本郷キャンパスの法学部に移ってからは、彼の独創によって、「姉妹都市(sister city)クラブ=世界の姉妹都市提携を研究する」と称する同好会を立ち上げた。

大胆な行動力により、異彩を放ち、多くの他大学生を集めていた。トヨタをスポンサーとして東京からパリへ車で移動する、そうした大掛かりなイベントも、実施直前までいった。残念ながら、1979年のイラン革命の余波による第二次石油ショックによって、このイベントは中止になってしまった。

のちの「プロデューサー広瀬一郎」としての萌芽を感じるナイストライであったが、この果敢な試みによって東大を留年することとなった。

 

電通における密教的な事業

広瀬は、1980年に電通に入社して特別なスポーツビジネス経験を積むことになった。

当時スポーツ事業は、かの電通のなかでも最も泥臭い仕事と思われていた。80年以前には、現在のようにスポーツが企業からのスポンサード収入と、メディアからの莫大な放映権収入により華やかなビッグビジネスとなっていくことは、誰も想定していなかった。

これが実現したのは、1984年のロサンゼルス五輪オリンピックの民営化を成功させたアメリカの実業家ピーター・ユベロス氏と、アディダス創業者の長男で、FIFAを牛耳ったといわれるドイツ人、ホルスト・ダスラー氏。

この両氏の独創によるものだった。そして彼らとの信頼と資本提供を通じて、これを共同創業したのも同然だったのが、服部庸一、高橋治之氏(元電通役員)ら格別な人材を有した電通のスポーツ事業局であった。これは日本のなかでも数人しか真髄がわからない、一子相伝・密教的な事業として始まった。

広瀬は、ここでサッカーを中心にスポーツ人脈を広め、プロデュース体験を積んだ。最も重要だったのは、トヨタカップの担当になったことだと思う。

もともとヨーロッパと南米のチャンピオンクラブ間で行なわれていた「インターコンチネンタルカップ」が、多発する暴動や遠征の負担過多で70年代末に行き詰まった。そこで1981年から中立で安全な第三国=日本で、トヨタがスポンサーになり開催されることになった。

トヨタの営業局にいた広瀬は、これを担当するかたちでスポーツ事業局に異動した。

2002年W杯が日本で行なわれる可能性がある、広瀬は日本でいちばん早くこれに気付いた人間かどうかはわからないが、そのための人脈や影響力を行使できる絶好の位置にいて、最も熱心な布教者であったことは間違いがない。

そうした熱狂的なイノベーター・発明家は、オピニオン・リーダーとなることは難しいとされている。広瀬も頭を下げて説得して、オピニオン・リーダーや反対者を地道に説得するのには、じつに不向きな性格であった。

2002年W杯が日韓共催に持ち込まれるという不運があり、さらに事務局内外での主導権争いや足の引っ張り合いが生じた。その際に、広瀬は電通の十全のバックアップがあるような組織人ではまったくなかった。彼はこの大プロジェクトに最初の火こそ灯したが、途中で選手交代させられる経緯となった。

たいへんな傷心であったであろう。その痛みをあまり人に見せることはなく、しばらくゴルフ事業を担当したあとコーポレート・コミュニケーション(広報)局に異動。環境問題をテーマにして、サバティカル的にアメリカで学び、フィリピンで実地研修を行なった。

その時には「俺はもうスポーツをやめて環境問題で生きていく」と宣言したこともあったのだが、サッカーという彼の通奏低音はその後も鳴り続けることをやめなかった。

 

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著者紹介

吉田 望(よしだ のぞむ)

nozomu.net代表

1956年、東京都生まれ。東京大学工学部卒業。慶応義塾大学大学院経営学修士。1980年、電通に入社。営業局、ラジオテレビ局、電通総研、メディアコンテンツ統括調査部長、電通ドットコム取締役などを経て2000年に退社。ブランド・コンサルタント「ノゾムドットネット(吉田望事務所)」を設立する。

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