広瀬は何度もの苦境を軽々と乗り越えてきた男である。その彼の最大の蹉跌は、2013年静岡県知事選に自民党推薦により出馬したことであろう。
広瀬は地元静岡の名門校を出て東大法学部を卒業したことへの、隠しようがない自負があった。あるいはスポーツ庁が発足をし、また指定管理者制度普及やスポーツマンシップ活動に携わったことによる、制度設計者の心持ちが芽生えたのか。そして、安倍バブルに乗り、天職を勘違いしてしまった。
現職の川勝平太知事は、万全の知性と感性、実績と人気をもち、誰が出馬したとしても勝てる見込みはゼロであった。おそらくは選挙活動を行なわないと自民党の県支部活動が停滞する懸念があり、そのローカルボス同士の駆け引きがあったのであろう。
結果、悲惨な当て馬となって地方政界の古沼に沈み、その泥水を味わう羽目となった。当然のようにこれは静岡県の自民党県支部発足以来の大惨敗を招いた。当日、NHKによる川勝知事の当確予想は、8時を15秒ほど過ぎたところで報道された。
広瀬が進めようとしていたスポーツマンシップ活動は、自由な民主主義国家の、グローバルな市民の、自発的フェアネスについての心構えである。おそらくは選挙で痛感した、地方政治の前近代性に対する反感も加わったのだろう。
彼が「スポーツ」を語るときに、国家体制による統制や心身の制約の意味を含む「体育」に対する否定や攻撃のニュアンスが、相当多く含まれるようになっていった。
ところが体制党から選挙に出て大敗したことで、アカデミックな在野のイメージが失われた。また自民党からも民進党からも、あるいは官僚組織、また幾多の体育学科が現存する大学組織からの、強い不快感が生じたのは間違いがない。
知性溢れる体制批判者なのか、無批判な体制側なのか。広瀬のパブリックイメージ、セルフイメージ、いやセルフ・アイデンティティすらも混乱したのではないか。体育を置換する言葉として「スポーツ」という言葉を持ち出すとき、それが「広瀬」によって語られるとなると、権力者層において不気味な沈黙と、続いて激烈な反発が起きる。
広瀬は傍若無人に見えても、じつは小心なところもあった。彼は選挙大敗以降、若き日の激昂ぶり、敵対ぶりを反省して、よりよきオピニオン・リーダーになろうと考えを変え始めていたが、あまりに遅かった。それらの行き詰まりや袋小路感が一因となり、急激な体調不良をきたしたのではなかったか。これは僕個人の一憶測である。
彼の死によっても彼が日本のスポーツビジネスに残した功績は陰ることがない。むしろ、スポーツにふさわしい永遠の若さを彼は得たとも感じる。広瀬は20世紀において21世紀へと生き急ぎ、21世紀になってからはむしろ20世紀へと戻ろうとしていた。
しかし、彼が火をつけたスポーツの新しい松明そして通奏低音は、彼の後継者たちが引き継ぎ、これからの日本のスポーツ界を大きく変えていくことだろう。
更新:11月23日 00:05