2017年08月18日 公開
2022年12月15日 更新
9条3項改憲で自衛隊を憲法典に明記しようとの主張に対し、私は条件付き賛成と答えることにしている。
端的にいえば、これまでの憲法解釈を一掃し、法体系を軍隊式の禁止事項列挙型に全改正し、十二分な国防予算を付すのならば、賛成である。しかし、「解釈も法律も予算も無視して一点突破」などという9条3項改憲ならば、反対である。
あえて両極端な例を挙げた。「9条3項」といっても、千差万別である。もっとも、どのような条文にするのかも明らかになっていないのに、本来は賛成も反対もないはずなのだが。
だが、条文の前に重要なことはいくらでもある。
最も重要なのは、内容である。
なぜ自衛隊が合憲なのか。自衛隊をどう位置付けるのか。憲法典の条文に加筆した場合、関連措置として何が必要か。これらの議論なくして「9条3項一点突破」などと声高に叫ぶこと自体が無意味かつ有害となりかねない。
「やっても意味がなかった改憲」「やらねばよかった改憲」ならば、他のことにエネルギーを注いだほうがよほど有益だ。
だが、日本国憲法制定以来、曖昧な状態に置かれていた自衛隊を条文で明記するのに反対する気はない。そこで、日本国憲法九条に自衛隊を明記しようとした場合、いかなる議論が必要なのか、5点を提示したい。
第1点として、大前提を問う。日本国に軍隊をもつか否かの合意はあるのか。改憲論議において、ここから逃げるべきではない。
世界の大多数の国は、「軍隊をもつ」という合意をしている。そのうえで、いつの時期にどの程度の軍備を充てるか、国際情勢と経済状態から勘案している。
逆に、「軍隊をもたない」という合意をしている国もある。軍隊を廃止し準軍隊(国際法で定義されるParamilitary)による防衛を国是とするコスタリカ、安全保障をスイスに全面的に依存しているリヒテンシュタイン、ツバルのような小規模の島嶼国家などである。軍隊を保有していない国は世界で25カ国あるが、いずれも小国である。
では、領土と経済規模において大国であり、核保有国が密集する地政学上の重要地帯である東アジアに位置するわが国が、「軍隊をもたない」「他国に安全保障を一任する」などと主張して許されるのか。その程度のことを国民に説得できなくて、どうやって憲法改正などという大それたことができるのか。
あるいは、憲法典に「国防軍」だの「自衛軍」だの、「軍」を明記すれば合意ができるなどと甘い考えを抱いているのか。憲法典に書き込みさえすれば、狂信的な護憲派を説得できるとでも思っているのか。憲法典の条文を万能だと思っているのなら、改憲派も護憲派と同じ穴のムジナである。
日本国は軍隊をもつべきである。圧倒的多数の国民は当然だと思いながらも、護憲派を罵るばかりで、これまで真っ当な説明をしてこなかった改憲派にも不満を抱いているのだ。
では、なぜ日本国は軍隊をもつべきなのか。地球上で文明国として生きていくためである。
文明国とは、誰にも媚びずに、自分の力で、自分の生存を主張できる国のことである。わが国を取り巻く環境を一望すれば、比喩ではなく火薬庫と化した朝鮮半島で、米中露の3大国がにらみ合っている。米国陣営にはわが国と台湾、そして東南アジア諸国。中国陣営にはロシアと北朝鮮、最近では韓国がなびき始めている。この両者を分かつものは何か。
1つは、海洋勢力と大陸勢力の地政学的環境である。もう1つは、価値観である。人を殺してはならない。この、日本人にとって当たり前の価値観を共有できるかどうか。
金正恩はいうに及ばず、習近平やウラジーミル・プーチンの核兵器がわが国を向いている。守ってくれるのは、気まぐれなドナルド・トランプ。ここで一足飛びに、いますぐ核武装しろなどと、できもしない空想を主張する気はない。しかし、圧倒的多数の国民が、この危険な状況をいつまでも唯々諾々と受け入れるだろうか。未来永劫、アメリカの属国として生き、中国やロシアに媚び諂い、北朝鮮に足蹴にされ続けることを望むだろうか。
名前が自衛隊のままであるかどうかは、問わない。名前がどうであれ、国民のあいだに合意がなければ、軍隊なのかどうなのか曖昧なままだろう。まさか改憲後も、「9条3項に明記されている自衛隊が軍隊か、どうか」という議論を続ける気か。自衛隊の名称を憲法典に書き込むにしても、軍隊なのかどうなのかを曖昧にしたままでは何の意味もない。
今後、日本国は軍隊をもつのかどうなのか、国民の合意が必要だ。憲法観の合意なしの憲法論議など、百害あって一利なしだ。
(本記事は『Voice』2017年9月号、倉山満氏の「やっても意味がない改憲」を一部、抜粋したものです。続きは現在発売中の9月号をご覧ください)
更新:11月22日 00:05