2016年02月21日 公開
2023年01月12日 更新
翌26日はボクシングデイと呼ばれ、日本の初売りのように、多くの店がバーゲンをする。娘たちに取られたタクシー代を取り戻すチャンスとばかりに勇んで出かけたら、華やかなロンドンのショッピング街はすごい人出で、しかし、よく見ると中国人ばかりだった。バーバリーのビルは、上から下まで客の90%が中国人。あとの5%がアラブ人で、残りの5%がその他の人びと。爆買いは下火どころか、ロンドンでは燃え盛っている。
ハロッズの1階にはブランド物が並ぶが、ここも7割方が中国人で、2割がアラブ人。中国人の長い行列ができていたので何かと思って先頭まで覗きに行ってみたら、グッチのハンドバッグ売り場だった。品物が勝手に手に取れないようになっているので、買いたければ並ぶしかないらしい。
そうするうちに、ニューヨークに飛んだ娘からメールが入った。「無事に着きました。でも、ここ中国人ばっかり!」。アルバニアに行った娘からは、「足裏マッサージって知ってる? すごいよ、これ!」と感極まったメールが。聞いてみたら、なんと、ここも中国パワー全開。世界は大変なことになっている。
28日には大英博物館に行った。ここにはパルテノン・ギャラリーという世界的に有名な大展示室がある。かつてギリシャのアクロポリス大神殿を飾っていた壮大な彫刻群で、どれもこれも芸術的価値がきわめて高い。大英帝国が、金力と武力と詐欺力(?)で切り取って、「合法的に」イギリスまで運んだものだ。
朽木ゆり子氏の『パルテノン・スキャンダル』という本がある。当時、ギリシャはオスマン帝国領だったが、この本には、パルテノンの遺跡をイギリスに運ぶことに全力を注いだイギリスのトルコ大使、エルギンという外交官の一生が描かれている。また、大理石の彫刻をめぐる当時のイギリスとフランスの争奪戦や、ギリシャとイギリスのあいだでいまも続いているそれら遺跡の返還運動の経緯なども詳しい。すこぶる良い本だ。
ただ、欠点はあった。この本を読んでからパルテノン・ギャラリーに行き、壮大な展示品のはざまに立った瞬間、ギリシャ人がこれを見たらどんな気がするだろうかなどという邪念に囚われ、大理石彫刻を素直に楽しめなくなってしまったのだ。
そのあと見たバビロニアやアッシリアの遺跡展示物も同様。大きさといい、重さといい、半端ではない巨大な石の塊。大量の現地人をこき使って、切り取り、船に乗せたにちがいないなどと想像を逞しくする。
「これが略奪でなければ何だろう。大英博物館が入場料無料なのは当たり前。いくら何でもギリシャ人やエジプト人から入場料は取れない!」
そういえば昔、イラクに住んでいたころ、バビロンやニネヴェに行ったことがある。かつてバビロンにそびえ立っていたはずの壮大なイシュタル門は、現在、ベルリンのペルガモン博物館にある。1000tという膨大な数の欠片をすべて軍艦で運んできて、年月をかけて復元したものだ。当然、現地には、見るべきものは何も残っていなかった。
一方、ニネヴェでは、遺跡はちゃんと残っていたが、去年、ISがそれを破壊している映像が流れた。あまりにも無念だ。ところが大英博物館のニネヴェの遺跡の前で夫は、「だから全部ヨーロッパにもってきておけばよかったのだ」といったのだ。
一理あるかもしれないが、ヨーロッパ人の口からそれを聞くと、やはり素直には受け取れない。それに私は、ISの出現には、ヨーロッパ人の過去の蛮行や、直近の米英仏の軍事行動にも大いに責任があると思っているのである。そんなわけで、また少し立腹。わが家ではしばしば家庭内で“文明の衝突”が起こる。
その夜遅くドイツに戻ると、慰安婦問題での日韓合意のニュースが飛び込んできた。これには、心臓が止まるほどびっくりした。
慌てて日本の報道を見ると、主要紙のオンラインニュースでは、「安倍首相の外交勝利」「日韓の仲直りへの期待」など、肯定的な見方がほとんどだ。日韓が対立を続けると、対中共同作戦を立てられず、日本も困るがアメリカも困る。そのためアメリカからの強いプレッシャーがあり、今回の合意が成立したという。いずれにしても、日本が妥協し、韓国大統領の顔を立てれば、日韓関係が改善され、日本の国益にも適うはずという理屈だ。日本政府は戦略的に、「名を捨てて実を取る」作戦に出たのであろうか。
たしかに日本国内では、一昨年の朝日新聞の謝罪により、これまでの慰安婦についての報道の多くが誤りであったということもわかり、国民のあいだでは、不毛な争いにはそろそろ終止符を打ちたいという機運が高まっていた。安倍政権が、当時の兵隊相手の売春婦の存在を否定しているわけではないことも、皆、わかっている。つまり、今回の合意をもって「解決」としたいという土壌が、すでに出来上がっていたのかもしれない。
しかし、海外にいる日本人の立場からいわせてもらうと、まったく違った話になる。「慰安婦」はドイツではTrostfrau(慰め女)という変な言葉に訳されているが、ここで流れたニュースの内容は、極悪非道の日本軍に「性奴隷」として奉仕させられた20万人の少女や女性たちの多くは、虐待と拷問で生きて帰ってこられなかった。なのに日本軍は都合の悪い証拠を隠滅し、以後、歴代の政権は、慰安婦の存在自体を否定しつづけた。ところが、このたび安倍政権がようやくそれを、軍の関与をも含めて初めて認めた。そして謝罪し、10億円の慰謝料を払うことになったというものだ。
もちろん、これらの話は多くがおかしい。20万人というのはものすごい水増しだし、性奴隷は嘘だし、それを拷問して殺す理由も不明だ。また、軍指導の強制連行があったかどうかはいまだに争点。一方、売春婦は公募制で、ちゃんとお給料が払われていたという主張はかなり信憑性が高い。しかも日本政府は謝罪をしており、国家間では補償も済んでいる。
日本人なら、たとえどんな意見の人でも、そういう知識はいちおうもっているし、何が争点かも知っている。しかし、外国では誤った情報だけが独り歩きしてきたため、たいていのドイツ人は、今度こそ安倍首相も逃げきれなくなって謝ったのだと解釈した。首相が韓国の言い分の一切合切を認めたのだから、そう思っても当然だ。このうえ将来、少女像の撤去で揉めたりすると、かえって日本は卑怯だとか傲慢だとかいわれかねない。
じつは慰安婦問題については、いままでも、誤解を正すために海外で地道な努力を続けてきた日本人が大勢いた。彼らにとって今回の合意は、弾が後ろから飛んできたようなものだ。日本政府に裏切られた気分だろう。とくにアメリカ、カナダ、オーストラリアなど、少女像の立っているような町の日本人は気の毒でたまらない。学校で日本の子供が虐められるなどという話を聞くと、同じ海外に住む人間としてとても心が痛む。
さらにいうなら、名を捨てて実を取るということは、かつて日本のために戦った兵士全員に、彼らが犯さなかったかもしれない罪をなすりつけることにならないか。とっくの昔に死んでしまった人の名誉より現在の国益? しかし、それは取りも直さず、私たちの父親や祖父の名誉なのだ。私たちが犠牲にしたものは大きいと思う。
更新:11月22日 00:05