2015年05月10日 公開
2023年02月01日 更新
企業や個人がマイナンバーで銀行や証券の口座を開き、税務署が番号を照会すれば、入金から納税までのお金の流れをすべて把握することができる。
これまで日本では納税者番号制がなかったので、脱税が公然と放置されてきた。マイナンバー制を導入すれば、税金の未納分が一目瞭然となる。税逃れのないようにきちんと管理すれば、日本の税収は増え、消費税率の引き上げなど二の次、三の次であることがわかる。それほど消費税というのは脱税が多いのだ。
たとえば日本の小売業者は、納入業者から商品を仕入れるときに負担する消費税額を、商品を売ったときに得る消費税額から引いている。しかしその際、納入業者からの納品書に消費税額が記されていない。事実上「言い値」になっているので、仕入れの際に小売業者が負担額を多く見積もれば、小売店の払う消費税額を減らすことができてしまう。
この納入システム上の欠陥によって取り逃がしている消費税は、およそ3兆円に上ると見られる。納品書に消費税額を明記してその額だけを控除できるようにするインボイス方式(税額伝票)に切り替えれば、消費税の徴収漏れを確実に防ぐことができる。
日本は現在、社会保険料で10兆円、脱税で5兆円、消費税で3兆円が未納だという。計20兆円近くの税金が支払われておらず、源泉徴収をされるサラリーマンをはじめとして、税金をまともに納めている国民は馬鹿を見つづけている。このような制度上の不備は即、変えなければならない。
これまで取り逃がしていた脱税分をマイナンバーで捕捉し、税金を集めるのは有効な財政政策である。消費税を増税する前に、個人が払う消費税と企業が払う法人税が「二重課税」になっている、という根本的な問題があることも浮き彫りになるだろう。
だが、財務省のいうとおりに「消費税率を上げなければ財政破綻する」と報じていた左派マスコミは、揃ってマイナンバーの導入に消極的だった。なぜか。
マイナンバー制に反対したのは、税金逃れをしている人や、仕事を増やしたくない役人を除けば「プライバシーの侵害にあたる」という左派の主張である。しかし、税や社会保障に関してプライバシーで壁をつくったら、徴税も行政サービスも成り立たない。プライバシーを盾に脱税される国のほうは堪ったものではない。
マイナンバーがプライバシーの侵害なのであれば、日本以上にプライバシーに敏感なヨーロッパ各国で納税者番号制がスタンダードになっているはずがない。現実に世界で行なわれている個人情報保護の工夫を、日本も取り入れればよいだけである。日本のマスコミは、まさか脱税を放置することが正義だと考えているのだろうか。
基本的に、マスコミの問題は自分でデータに当たって調べないことにある。政府の予算書一つとっても、2000ページもあるから、面倒なのだ。その代わりに記者たちは財務省のレクチャーを受け、官僚のまとめたプリントを丸呑みする。情報統制というなら、自民党の中立要請よりも、財務省の「増税は未来への責任」とのプロパガンダのほうが、新聞やテレビによほど恐ろしい統制を施しているのだ。私は官邸経験のある数少ない官僚だったが、官邸が情報統制やテレビに圧力を掛けるなどという場面に出くわしたことはない。「事実に反する」という指摘をマスコミに対して行なったことはあった。
私が霞が関にいた時代、「マスコミの脳は小鳥の脳。容量に見合う情報だけ与えておけばいい」と囁かれていた。先述のように予算書の一部さえ読まずに記事を書くのが日本の記者だから、残念なことに右の言葉はさほど間違ってはいない。
私がテレビでコメントをするときの発言は、すべてエビデンス(evidence、証拠)に基づいている。テレビ番組に出て「なぜあのような発言をしたのか」と尋ねられても、必ず該当のデータや事実を提出して答えることができる。これはテレビで喋ろうと、雑誌に書こうと変わらない。反対に財務省時代には、コメンテーターの発言が事実とまったく異なるので、データを示して問い合わせをしたことがある。事実であればイエス、事実でなければノーで謝る、という単純明快な世界である。ところが大概の人はムニャムニャいったきり返答がない。
証拠や事実というのは、好き嫌いやイデオロギーの問題とはいっさい関係ない。たとえば原発問題に関して、「一刻も早く原発再稼働を」と「一刻も早く脱原発を」という意見があるが、私はどちらでもない。原子力とLNG(液化天然ガス)火力、石炭火力、石油火力、陸上風力、洋上風力、地熱、太陽光、ガスコージェネレーション(天然ガスを使った発電で生じた排熱を冷暖房や給湯などに使う仕組み)で発電した際のコストをそれぞれ円/kW時の数値で比較し、最も効率のよい発電方式をその都度選んでいけば、おのずと市場原理に基づいた解が出るからだ。
エビデンスのない日本のマスコミに「公平中立な番組作成」は無理だし、コメントする側もテレビ番組に出て自由に発言できる、と考えること自体がおかしい。スポンサーの制約や時間の制限があるから、コメントが途中でカットされることやまったく放送されないことも日常茶飯事である。そもそもテレビ番組は多くのスタッフと共同でつくっているので、コメンテーター一人だけのものではなく、一人の意向が通るはずもない。実際にスタジオに入ってみればわかることである。
私が主張を自由に述べる媒体はあくまでも個人名で責任を取れる著書や雑誌、ブログである。テレビ番組で語る内容は、本や論考の一部分を披歴するだけだから、基本的に新しいネタはない。これはテレビを視聴する側もある程度、割り引いて見たほうがよいと思う。出演を頼むテレビ局の側もその人が書いた本を見て依頼するわけだから、おのずと限界が生じる。限られた時間と設定のなかでコメントを流し、視聴率によって番組の方向性が決まるのがテレビであり、特有のシステムとして割り切って考えるべきだろう。
<『Voice』2015年6月号より>
更新:11月22日 00:05