2015年04月08日 公開
2023年02月01日 更新
ペリリュー島は、パラオ本島から南に約50kmに浮かぶ南北約9km、東西約3km、面積にして約13平方キロメートルの小さな島であるが、当時、フィリピン攻略を企図する米軍にとっては喉から手が出るほど欲しい戦略の要衝だったのだ。
ペリリュー島に押し寄せてきた米軍上陸部隊は、第一海兵師団約2万4000人と米陸軍第八一歩兵師団約2万人に加え、付属の海軍部隊など総勢約5万人もの大部隊であった。
一方、守る日本軍は、中川州男大佐率いる陸軍第一四師団の歩兵第二連隊を中心とする総勢約1万1000人の守備隊だった。
圧倒的物量を誇る米軍に対抗する中川大佐は、日本軍がこれまでサイパンやグアムなどで実施してきた水際撃滅と、“バンザイ突撃”といわれる総攻撃の戦法を改め、水際には、綿密に火力を連携し合える頑強なトーチカ陣地を設け、内陸部には、固い岩盤をくり抜いて造った複郭陣地を張り巡らせて、兵士が身を隠しながら戦い続ける徹底持久戦法の方針を打ち立てた。
複郭陣地の固い岩盤は、猛烈な米軍の艦砲射撃も、また執拗な航空攻撃からも将兵を守ってくれたのである。そして、物量では絶対劣勢にありながら、精神力に優る日本軍守備隊は、その兵力の大半を失いながらも米軍に未曾有の損害を与えたのだった。
昭和19年9月15日午前8時、沖合の戦闘艦艇の艦砲射撃とF4Uコルセア戦闘機の対地攻撃の支援を受けた第一海兵師団の上陸部隊は、ペリリュー島の西側海岸に突進を開始した。
上陸海岸の一つとなった西浜では、四つの中隊が、上陸地点を、ホワイト1、ホワイト2、オレンジ1、オレンジ2、オレンジ3に区分してそれぞれの担当海岸をめざした。そして突撃第一波が、海岸から約150mに迫ったとき、それまで猛烈な艦砲射撃と空爆にじっと耐えて沈黙を守っていた日本軍の水際陣地と、内陸山中の野砲が一斉に火を噴いたのである。
神鬼をも哭かしめる日本軍守備隊の猛反撃が開始されたのだ。それはまた米第一海兵師団の悲劇の始まりだった。
ペリリュー戦を描いた児島襄氏の『天皇の島』(講談社)には、その凄まじい最前線の様子が描写されている。
《午前8時25分―プラー大佐が、ちょうど煙幕をぬけて、サンゴ礁の浅瀬にさしかかったときである。島をおおった黒煙をぬって、赤い閃光がまたたいたと思うと、第一波上陸部隊の周囲を水柱がとりまき、水陸装甲艇は砲弾と機銃弾のうずにまきこまれた。海岸はすぐ目の前である。ガリガリとサンゴ礁を舟底でくだきながら、水陸装甲艇はしゃにむに砂浜にのしあげようとするが、砲爆撃に残った機雷にふれて爆裂するもの、海岸に上ったものの勢いあまって対戦車壕にはまりこむもの、野砲、速射砲、迫撃砲をまともにうけて炎上するもの、岸辺は瞬時にして燃え上がる舟艇と負傷兵のうめき声に充満した》
だが、上陸した海兵隊を待ち受けていたのは、さらなる地獄だった。
米軍のLVT(水陸両用装甲車)やアムタンク(水陸両用戦車)が次々と日本軍守備隊の直撃弾を浴びて撃破されていく。米上陸部隊は大混乱に陥ったのだ。日本軍守備隊は、西浜一帯に見事に連携した堅固な水際陣地を築いて米上陸部隊を手ぐすね引いて待ち構えていたのである。
西浜の北からイシマツ、イワマツ、クロマツ、アヤメ、レンゲと名付けた強固なトーチカ陣地群は、海岸に押し寄せる敵に効率よく十字砲火を浴びせかけるよう配置されていたのだ。
敵の主力上陸地点となった西岸地区(守備隊長・富田保二少佐)および南地区(守備隊長・千明武久大尉)では、山中に布陣した砲兵との共同によって、米上陸部隊に猛撃を加え、敵を完膚なきまでに叩きのめしたのである。
千明武久大尉率いる歩兵第一五連隊は、アムタンクを伴うLVTが至近距離に近づくや、一斉に銃砲弾を浴びせてこれを見事に粉砕し、後続の敵第二波攻撃も水際に捉えて撃退したのである。このころ、米軍の快進撃に圧されて意気消沈していた太平洋地域の戦域に久しぶりの凱歌が上がった。
そして、矢弾も尽き果て刀折れた昭和19年11月24日午後4時、中川大佐は軍旗を奉焼したのち、最期を告げる「サクラ・サクラ」を打電し皆に別れを告げた。
《みな、よく、戦ってくれた。敵上陸いらい70日、こんなりっぱな戦いができたのは、みなのおかげだ。ご苦労であった。しかし、まだ日本人としての戦いは終わっていない。その戦いを命令する。みなの足手まといになるといかんから、先に行く》(『天皇の島』)
そう言い終えた中川州男大佐は、村井少将らと共に従容として自決を遂げたのだった。ここに水戸第二連隊を中心とする日本軍守備隊の組織的抵抗は終焉した。米軍上陸から73日目のことであった。
当時、日本の戦局は振るわず、連日暗いニュースが前線から届くなか、このペリリューの戦いぶりは大本営幕僚を驚かせ、そして起死回生の逆転を期待させたという。
またペリリュー守備隊の敢闘は消沈していた全軍将兵を大いに奮い立たせ、ラバウルの今村均中将は、部下に「ペリリュー精神を見習え」と訓示するほどその精神的影響は絶大なるものがあった。
そして天皇陛下は、つねにペリリューの戦況を気にかけておられ、毎朝「ペリリューは大丈夫か」と御下問されていたという。
陛下は、不撓不屈の精神で勇戦敢闘を続けるペリリュー島守備隊に対して11回もの御嘉賞を下賜されたのだった。――ゆえにこの島は「天皇の島」とも呼ばれた。
9月15日、9月17日、9月22日、10月6日、10月18日、10月24日、11月2日、11月7日、11月13日、11月15日、そして11月22日、天皇陛下の御嘉賞がペリリュー島の司令部壕に届くたびに皆は感涙にむせび、断固必勝を誓い合ったという。そしてこれに奮起した将兵たちは、まさしく護国の鬼となって寄せ来る敵に凛然と立ち向かっていったのである。
ここで再度申し上げておきたい。
大東亜戦争におけるサイパン、テニアン、そしてパラオなどでの戦闘は、日本が武力で攻め込んだかのように誤解している日本人も少なくないようだが、これはまったくの誤解なのだ。
パラオやサイパンなど南洋の島々は、そもそも第一次世界大戦後より国際連盟から任された日本の委任統治領だったのであり、侵略してきたのは日本軍ではなくアメリカ軍だったのである。この歴史的事実だけは、今次の天皇皇后両陛下の行幸啓を機にはっきりさせておく必要があろう。
さてパラオの首都は、2006年10月にコロールから同国最大のバベルダオブ島のマルキョク州に遷された。
バベルダオブ島の総面積は約330平方キロメートルでパラオ共和国の面積の約7割を占めており、周辺地域でもグアム島(約550平方キロメートル)に次ぐ大きさだが、その大部分が未開発の状態にある。
そんなことも手伝ってか、ペリリュー島と同じく戦跡や遺棄された兵器も数多く残っている。
だが2004年(平成16)、そんなバベルダオブ島に「韓國人犠牲者追念平和祈願塔」なる“反日記念碑”が、あろうことかパラオ共和国の首都マルキョク州の国会議事堂から150mほどの距離に韓国のある団体によって建立されたのだった。そこには英語とハングル文字でとんでもない歴史の捏造碑文が刻まれている。
碑文の仮訳はこうだ。
《韓国人犠牲者の苦難
相当数の韓国人が、大日本帝国に主権を奪われ、第二次世界大戦前に祖国、両親、兄弟、姉妹、妻、子供から遠く離れたパラオに連行され、移住者という口実の下、日本軍のために農業、鉱業、漁業、要塞構築といった重労働に従事した。しかし、第二次世界大戦勃発後、当地におけるすべての韓国人労働者は日本軍に徴発された。韓国人女性は、エンターテイナーとして日本兵のために働くことを強いられた。太平洋戦争末期、パラオ地域における韓国人は5000~6000人にまで増加し、そのなかにはエンターテイナーとされていた韓国人女性約500人や、満洲のいわゆる関東軍とともにパラオに来た相当数の韓国人兵士が含まれていた。そして、当地における韓国人は隔離され、文字通り奴隷とされた2000人にものぼる韓国人が、飢餓、病気、日本人による虐待・暴行、事故、米国機による空襲のため悲痛な死を遂げたとされる。戦時中に建設された橋の一つに、通称アイゴー橋と呼ばれていたものがあり、地元の人々に広く知られていた。アイゴーというのは、韓国人が非常に極限の困難な状況において発する韓国語の感嘆詞である。このような通称は、当時の韓国人がどれだけの困難や苦痛を味わわなければならなかったかをよく表している。いまの世代の韓国人による次の祈りでさえ、私たちの同胞の深い悲しみを癒やすには不十分であろう。なんじの魂が、極楽浄土にゆかれ、涅槃を享受し、永遠の平和の中安らかに眠られますように。祖国の地は決してなんじを忘れません。
2004年12月
海外犠牲同胞追念事業会
会長 李龍澤》
ここにもまたや韓国お得意の慰安婦が“エンターテイナー”として登場し、これでもかと日本を責め立てているのだ。
この事態を問題視している元防衛大臣政務官の自民党参議院議員・佐藤正久氏は、平成26年夏に現地視察を終えてこう語る。
「たしかに日本統治時代のパラオには朝鮮半島出身者もいたでしょうが、碑文にある数字はずいぶんと誇張されたものでしょう。もとより韓國人犠牲者追念平和祈願塔なるものは、その建てられた場所、碑文の内容のどれをとっても日本を貶めようという意図が明らかです。さらに建立主が海外犠牲同胞追念事業会なる民間組織を名乗っていますが、間違えれば大きな外交問題に発展しかねない場所に、このきわめて政治的な記念碑を建てたわけですから、その背後に韓国政府が直接間接的に関与していることは疑う余地がありません。つまり韓国の対日情報戦とみるべきでしょう。日本はもっと“情報戦”について真剣に取り組まなければなりません」
そして佐藤議員は、パラオが中国の戦略目標である第二列島線の南端に位置し日本の安全保障にとっても重要な国であると力説した上で、日本人の危機感の欠如を訴える。
「日本を非難することを目的としたこうした韓国の記念碑がパラオの国会議事堂の近くに建てられたということは、つまり日本とパラオの関係が希薄になっている証左です。こうしたことを防ぐにはパラオとの関係を強化する必要があると思います。韓国のこの記念碑も大きな問題ですが、一方で、パラオ各地に建てられた日本の戦没者慰霊碑などが高齢化に伴う参拝者の減少で、年々朽ち果てていく様を放置しておくわけにはまいりません。日本政府が責任をもってこうした慰霊碑も整備していくべきでしょう。いずれにせよ、韓國人犠牲者追念平和祈願塔建立問題は、日本政府とりわけ外務省の情報戦に対する認識不足と、安全保障感覚および先人に対する感謝の気持ちの希薄化の結果であり、これらを根本的に改善していかねば、親日国家として知られたパラオがいつしか韓国や中国に取り込まれて反日国家の仲間入りする恐れがあります。日本政府も外務省もこうした危機感をしっかりともってもらわねば困るのです」
屈辱的な先の韓国反日記念碑が建立されたというのに、なぜ在パラオ日本大使館は黙ってみているのだろうか。このことは日本の外務省にしっかりと報告されているのだろうか。日本の外務省の怠慢な仕事ぶりと危機意識の希薄さに、あらためて苛立ちと怒りを覚える。
天皇皇后両陛下が国会議事堂をご訪問されたとき、あの韓國人犠牲者追念平和祈願塔をどう説明するのか。このあたりについてどのように行動するのか、ご意見を伺いたいものだ。
更新:11月22日 00:05