
ベツレヘムの街並み
イスラエルの侵攻が続き、いまだ戦火の止まぬパレスチナ。ヨルダン川西岸地区では、イスラエルによる入植者問題や軍の圧力が深刻化している。2002年、第二次インティファーダ(民衆蜂起)の真っただ中に、この地を訪れたノンフィクション作家・早坂隆氏の体験を『世界の旅先で、「日本」と出会う』より紹介する。
※本稿は、早坂隆著『世界の旅先で、「日本」と出会う』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
私はエルサレムから乗り合いバスに乗り、パレスチナのヨルダン川西岸地区に位置するベツレヘムへと向かった。エルサレムの10キロほど南方に位置するベツレヘムは、言わずと知れたイエス・キリストの生誕地である。
ベツレヘムはアラブ人が暮らす街になっている。店の看板などもすべてアラビア語だ。
イエスが生まれた場所には聖誕教会が建つ。マリアがイエスを産んだとされるその地点は教会の地下洞窟の中にあり、そこには星の印が設けられている。
ベツレヘムは第二次インティファーダ(民衆蜂起)の真っ最中だった。そんな影響から、私が訪れた時もイスラエル側から「外出禁止令」が出された。午後2時を回ったら「外出禁止」という命令である。
実際、午後2時を過ぎたのと同時に、イスラエル軍の戦車と装甲車が街に進入してきた。私はとあるパレスチナ人の自宅に匿われたが、その恩人曰いわく「イスラエル軍は動くものはすべて撃つ」「動かなくても気分で撃つ」という話だった。やがて、窓の外から銃声と悲鳴が聞こえてきた。
そして、そのような光景は、パレスチナ全域に溢れていた。
ある日、イスラエル軍による空爆があったという情報を得た私は、宿泊していたエルサレムの安宿から乗り合いタクシーでその地へと向かった。
到着したその地には、幾つかの黒焦げの遺体が無惨に転がっていた。周囲には肉の焦げる匂いが漂っていた。人間の焼ける匂いだった。私が「紛争による遺体」を見たのは、この時が初めてだった。遺体の周囲では数名の子供たちが泣き叫んでいた。この遺体は、この子たちのお父さんかお母さんだったのであろう。遺体の損傷が激しいため、性別も判断できない。
その夜、私は憔悴し切った気持ちでエルサレムの宿へと戻り、暗鬱な気持ちのまま狭いベッドに潜り込んだ。
翌日、私は宿のロビーに置かれていたパソコンの前に座り、日本のニュースサイトを開いた。今回のイスラエル軍の空爆が、日本でどのように報じられているかを確認しようと思ったのである。まだスマートフォンのない時代であった。
しかし、日本のサイトには、どこにもそのような情報は掲載されていなかった。その日、最も大きく報じられていたのは、「多摩川に出没したアザラシのタマちゃんが行方不明。ケガをしたかもしれない」というニュースだった。私は前日に見たパレスチナ人たちの黒焦げの遺体を思った。日本人にとっては、パレスチナ人よりもアザラシの方が重要なのか。
私は祖国の現状を深く恥じた。激しい悔しさに震えているうちに、涙が止まらなくなった。
「そんなアザラシなど死んでしまえ」
私は一人、そう呟いた。
それから数日後、私はエルサレムからアンマンに戻ることにしたが、その途中で立ち寄った村で再びイスラエル軍の外出禁止令に出くわした。その時もいったんは地元の人の自宅に匿われたが、外から届く子供たちの悲鳴がどうしても気になり、「現場を見たい」との思いを抑えられなくなった。気が付くと、私はその家を飛び出していた。
投石する子供たちに、イスラエル軍の装甲車が発砲していた。装甲車からは搭乗者の上半身が見えたが、よく見るとその兵士も10代の少年のような若者だった。その兵士はニヤニヤと笑っていた。
路地から路地へと身を隠しながら移動していた私だったが、不意に背後から何か怒声のようなものが聞こえた。振り返るとイスラエル軍の兵士が軍用小銃の銃口をこちらに向けて立っていた。私はゆっくりと両手を挙げたが、銃口は私を捉えたまま離れない。私は不思議と落ち着いた心境でその兵士の顔を直視し、下手なヘブライ語で、「ヤパン(日本)、ヤパニ(日本人)」と叫んだ。
その数日前、とあるジャーナリストから「命乞いのような態度はイスラエル軍には逆効果。毅然とした方が良い」と聞いていたが、その言葉を思い出していた。
同時に、端的に言うと、「撃つなら撃ってみろ」とまるで漫画のごとく、そう思ったのである。しかし、結婚してまだ2年ほどの妻には申し訳ないとも考えた。
どれだけの時間が経ったのかあまり見当が付かないが、そのうちにその兵士は小銃を下ろして、別の方角へと走り去っていった。私はどうやら助かったようだった。
私は祖国に感謝した。「日本」という国家の名前によって私は助けられたのだと思った。これまでの日本の国家としての歩み、つまりは先人たちの知恵や努力の積み重ねによって築き上げられた国家像のおかげで、私は撃たれなかったのである。国家とはこうして国民を護る。その逆もあるであろう。
その後、私はタクシーでヨルダンとの国境へと向かった。その途次、私は何気なく運転手のパレスチナ人の青年にこう言った。
「ひどい紛争だ。こんな状況は早く終わらせなければならない」
すると、その青年はハンドルを握ったままこう言うのだった。
「日本人の君に、僕たちの悲しみは理解できないよ」
その言葉が私の胸の奥まで突き刺さった。
自分なりにいくら懸命に取材をしたところで、私にはいつでも帰れる平和な祖国がある。そんな私が少しばかり現地をうろついたくらいで、この地のことなど理解できるはずもない。偉そうなことを述べても、白々しいだけである。私は彼の言うとおりだと妙に合点がいった。
イスラエルやパレスチナには、日本の大手報道機関の関係者の姿もあった。彼らは街で最も安全で高価なホテルに泊まり、夜には笑いながら高級ワインを開けていた。そんな彼らが「中東の悲惨な現状に日本人も目を向けよ」といった記事を書き連ねていた。
私はそんな人たちとは訣別しようと思った。そんな仕事に自分の一生を捧げたくないと考えた。
その後、私は外国の紛争よりも自分の国の先人たちが経験した先の大戦のことを書くようになり、今に至っている。私を大東亜戦争への取材に向かわせたのは、パレスチナ人の青年の一言であった。
時折、「戦争を知らない戦後世代に先の大戦のことなど書けるのか」というご指摘をいただく。そうかもしれないと思う。ただ、私は自己弁護かもしれないが、大東亜戦争のことを書く時は、パレスチナで見たあの黒焦げの遺体のことを必ず思い出すようにしている。
更新:08月24日 00:05