2025年03月19日 公開

時を超えて愛されている映画を観れば、歴史的名著と比べても遜色ない体験を得られる。『名作映画で読み解く世界史』を上梓した歴史学者と、映画に関する著作もある漫画家が映画の醍醐味と愉しみを語り合う。
※本稿は、『Voice』2024年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。
【本村】私は昨年(2023年)末に『名作映画で読み解く世界史』(PHPエディターズ・グループ)という本を上梓したのですが、有難いことに、これまで刊行した書籍とはまた違った反響をいただいています。
歴史にさほどは関心を寄せてこなかった映画ファンにも手に取っていただいているようで、その反対に映画に詳しくない人にも楽しんでいただいていると聞きます。
私は人の人生を形づくる大きな原動力は、「感動体験」にあると思っています。人は感動することで、未来の自分をつくりだすし、あるいは過去の自分が何に感動したかを自覚することで、いまの自分を知ることができる。
過去には『20の古典で読み解く世界史』(PHPエディターズ・グループ)という本で20冊の文学作品を紹介しましたが、後世に読み継がれている小説はおしなべて「感動」を得られます。
そんなことを考えているうちに、「名作」と呼ばれる映画にも同じことが言えるのではないかと気付いたのです。しかも、映画は長い作品でも4時間程度で、ビジュアルで訴えかけてきますから、文学作品とはまた異なる体験が得られます。
【とり・みき】いまは昔の映画を配信で気軽に観ることができる時代で、若い人も興味があれば1950年代や60年代の名作映画にアクセスできます。私が子どものころと比べると、まさしく隔世の感です。
【本村】本書のなかでは21の映画を紹介していますが、『天井棧敷の人々』(1945年)などを除き、私はほとんど封切で観ていますよ(笑)。
【とり・みき】封切ですか、映画好きとしてはじつに羨ましい(笑)。1960年代初期までの作品だと、私はテレビで初めて観た映画が多いですね。
本村先生と私は出身が同じく熊本ですが、東京のような名画座はなく、リバイバル公開がなければ過去の名作を映画館で観ることはできない環境でした。本や雑誌で名作や話題作のタイトルを目にしても、なかなか観る機会に恵まれない作品は少なくありませんでした。
【本村】これは現代にも通じる話ですが、劇場で観ると自分の都合で止めたり巻き戻したりできないので、集中度が違いますよね。また当時は入れ替え制ではありませんでしたから、朝から映画館に入り、一日に3作品観るなんてこともざらでした。
私は、とりさんよりも10歳ちょっと年上ですが、なにぶん娯楽が限られる時代でしたから、映画館に入り浸ったものです。すると、おのずと目当ての作品以外の映画に触れる機会にも恵まれて、期待せずに観ているといつしか感心させられるなど、思わぬ発見もありました。
いまでは、劇場でも配信でも「観たい」と感じた作品だけを観るのが普通ですから、そうした偶然の出会いは少ないのでしょうね。
【とり・みき】西洋史を題材にした映画を観に行ってパンフレットを手に取ると、よく本村先生の解説文に出会います。歴史の専門家であるのに、フィクション部分に対してとても寛容でいらっしゃるとは以前から感じていたところです。それは、おそらくは冒頭でお話しいただいたように、「感動体験」を与える作品づくりへの理解が深いからなのでしょう。
私は昨年まで、ヤマザキマリさんとの合作として『プリニウス』(新潮社)を連載していました。歴史ファンはとても知識が豊富で、とくにSNS時代では細かな部分に反応し、自分の知識や仮説を披瀝(ひれき)するのが好きな方が少なくない印象です。
時には作者の「史実に反する誤謬」が指摘されたり批判されたりしますが、われわれ作り手側からすると、たしかに本当にミスしていたケースもありますが、基本的にはしっかりと調べたうえで、あえてフィクションとして物語を紡いでいます。
その意味では、本村先生のようなオーソリティー(権威)がフィクションに寛容であることは、とても嬉しく感じていました。
【本村】何も歴史にかぎった話ではなく、事実をとことん突き詰めようとすれば、いつしか必ず食い違いが生まれます。
卑近な例を申し上げるならば、夫婦喧嘩一つとっても夫と妻の言い分はまったく異なりますよね。夫が妻に対して「馬鹿」と口にしたとき、夫は愛情表現を含んだ軽口のつもりでも、妻はとても重い気持ちで受け止めるかもしれない。
そのとき、どちらかの言い分が「正しい」と言い切れるものでしょうか。事実とフィクションの境目は考えられている以上に曖昧です。
イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニは、何が事実かという観点から作品を描くよりも、人間がいかにその物語に関与し、心を動かされていくかにフォーカスしたとき、そこに真実があるのではないかと口にしています。
現在に伝わる史実でも、見方や捉え方によって随分と異なる解釈が存在します。それをふまえたうえで個々人が「自分はこう捉える」と認識すればいい話でしょう。少なくとも、他者の考えや解釈を100%の間違いだと「断罪」することは不可能なはずです。
【とり・みき】『プリニウス』の連載を始める前、マリさんと一緒に本村先生にお会いして、古代ローマについていろいろと伺いました。「わかっていないことは想像で描いていいんだよ」とお話しいただき、とても勇気をいただいたことをよく覚えています(笑)。
主人公であるプリニウス(大プリニウス、23年~79年。古代ローマ帝国の属州総督を歴任するかたわらで、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著わした)については、甥が残した最期の描写を除いてはほとんど詳しい史料が残っていません。
そもそも、いまに残る文献などは勝者や統治者が記したものばかりで、それが客観的な記述であるかは別の話。そう考えると、何が事実で何がフィクションであるかは、本当の意味ではわからないでしょう。『プリニウス』については、それでもできるかぎり文献史料を参考にしてきたつもりですが。
映画では勝者や統治者に対して反逆したり、時代にそぐわない価値観をもっていたり、メインストリームを歩んでいなかったりする人物を主人公にすることが多いですね。
正史が描かなかったり隠したりしてきたであろう視点に触れることができるのも、歴史を描く映画を観る面白さではないでしょうか。もちろん、これは小説あるいは漫画にも当てはまる話です。
【本村】おっしゃるとおりです。歴史の知識のみならず視点あるいは見方を学ぶことができるのが、歴史映画の魅力であり、それが深い教養へと結びつきます。
実際の世界ではおっかないマフィアには関わりたくないと思うけれど、『ゴッドファーザー』シリーズを観ていると彼らの精神世界に触れられる気がするし、ヴィトー・コルレオーネやマイケル・コルレオーネに肩入れしてしまいますから(笑)。
【とり・みき】今回挙げた21作品のなかから、最初に観たときに、本村先生がとくに強い印象を受けた作品を挙げるならば、どれでしょうか。
【本村】もっともショックが大きかったのは『ベン・ハー』(1959年)ですね。まさに「後世に残したい名作映画」で、もう何度観たか覚えていません。最初に観たのは日本で封切られた1960年、中学1年生のときでした。
細部に至るまで丁寧につくり込まれていて、スクリーンに広がる街並み、建物、人びとの衣装や持ち物は自分が知る世界のものとはまるで違い、「もう一つの現実世界」が広がっていると感じさせられました。
物語はイエス・キリストの人生が、架空の人物である主人公ジュダ・ベン・ハーの生涯と交差するように描かれます。13歳の私は単純で、傲慢な支配者であるローマと、虐げられるユダヤという二項対立で認識していました。
ですから、権力を笠に着て旧友を裏切るメッサラよりも、理不尽な苦難を乗り越えようとするジュダに肩入れしたものです。しかしその後、ローマ史研究の道に進むと、むしろ敵役であるメッサラの苦悩や言い分がわかるようになって感情移入するようになりました。
『ベン・ハー』を観ていると、たしかにユダヤ人を弾圧するローマが悪者に映ります。しかし、実際のローマの統治は、当時としては非常に寛大でした。
彼らがユダヤ人に求めていたのは、「心のなかでは自分の神を自由に信仰していいから、表面的にはローマ皇帝に礼を尽くしてほしい」ということでした。何も抑圧や収奪しようとしていたわけではなかったのです。それでもユダヤ人はあくまでも首を縦に振らなかった。
【とり・みき】ユダヤ教は一神教ですからね。
【本村】そう。一神教では、それ以外の神は許されません。自分たちが信じる唯一神だけが「神」であり、そのほかは偽物という理屈です。
一方のローマ人は多神教でしたから、ユダヤ人の気持ちがわからないのは無理からぬことでした。当時、ユダヤ教以外に一神教は存在しませんでしたから。ローマ皇帝は従順ならざるユダヤ人に苛立ち、メッサラに厳しい立場を背負わせました。
【とり・みき】よく言われることですが、古代ローマ人の神に対する考え方が似ているのが、八百万の神を崇めてきた日本人でしょう。ですから、いまのヨーロッパ人よりも、私たち日本人のほうが古代ローマ人の宗教観は理解しやすいのかもしれないとは、『プリニウス』を描きながらマリさんともよく語っていたことです。
それにしても、本村先生にとって年齢とともに『ベン・ハー』という作品の受け止め方に変化があったというお話は面白く、それもまた映画の醍醐味の一つだと言えるでしょう。
【本村】文学作品で言えば、ドストエフスキーは10代のうちにあの衝撃を受けるべきと言われます。私はこの歳になったいまだからこそ、むしろ読み返してみたいと思っているのですが、なかなか時間をとれずに着手できていない。その点、映画は2、3時間で昔と違う自分の感情や発見に出会ったりできます。
【とり・みき】見方が変わる作品もあれば、当時と変わらない自分の価値観を確認することもある。裏を返せば、時を超え、さまざまな角度から楽しめたり気付きを得られたりする作品が「名作映画」なのでしょう。
もう一つ、私が歴史を題材にした映画を観る醍醐味だと思うのは、たとえ古代を描いた作品でも、その映画がつくられた当時の社会の倫理観や価値観に触れられる点です。なかには映画が製作された時代の風俗を意識的に仮託している作品もありますね。
たとえば、『名作映画で読み解く世界史』では紹介されていませんが、12世紀に生まれたイタリアの聖フランチェスコの若いころを描いた『ブラザー・サン シスター・ムーン』(1972年)は、明らかに彼と彼の仲間をフラワー・チルドレン(道行く人たちに花を配って反戦を呼び掛けていたヒッピーたちのこと)と重ねて描いています。
監督を務めたフランコ・ゼフィレッリはどちらかといえば保守的な旧世代の人だと思いますが、そんな彼でさえ、1970年代には若者の反戦気分という社会の空気を作品に投影していたことはじつに興味深い。
【本村】『天井棧敷の人々』が製作されたのは第二次世界大戦中、ナチスドイツの支配下にあったフランス・ヴィシー政権下(1940年~44年)のことです。1840年代に活躍した天才パントマイム役者とロマン派演劇俳優、インテリ犯罪者という実在の三人に架空の人物を交えた映画ですが、同作がつくられたのは、ドイツによる検閲が行なわれていたときのことでした。
ですから当時は、反ナチスドイツ的思想が表れやすい現代物ではなく、検閲に引っかかりにくい歴史を題材にした作品がよく製作されていたことは、戦争を考えるうえでの重要な示唆を与えてくれるように思えます。
【とり・みき】このたび、有難いことに『プリニウス』がフランスの歴史教科書に採用されました。送られてきた見本を確認すると、各時代を描いた映画や漫画、舞台が引用されていて、それぞれの作品の写真もふんだんに使われていました。教科書といえどもじつに自由なつくりで、日本でもそうした歴史や教養の伝え方を検討していいのではないかと感じました。
【本村】冒頭で申し上げたとおり、面白がったり興奮させたりして「感動」させることが、何かを伝えるうえではもっとも効果的です。ならば、歴史についても物語で紹介することが重要になるはずだし、短い時間でビジュアルに訴えられる映画や漫画は有力な選択肢になるでしょう。
たとえば最近の大河ドラマでも、放送されるたびに「ここが史実と違う」などと議論になるし、私もいろいろと思うことはありますが(笑)、しかしそれとは別の話として、もしもドラマの展開を面白いと感じる人が少なくないのであれば、彼ら彼女らの幾分かは歴史に興味を抱くかもしれません。
それから、私が歴史を学ぶことには大きな意味があると考えるのは、物の見方にはいろいろな立場があることを知る機会になるからです。たとえば、他者と最近の政治に関する話をすると、思想信条の違いが絡んできて口喧嘩になってしまうかもしれません。
ところが、数百年前の出来事について意見を戦わせると、自分たちと直接関係がある話ではないので、そこまでエスカレートせずに議論の落としどころを見つけることができる。これから私たちは、明確な正解など存在しない時代を生きないといけないわけで、そのときにさまざまな角度から物事を見る姿勢や視座は必要不可欠となるはずです。
【とり・みき】最近ではとくに「正解」を欲する人が多い印象です。私たちのように何かを創作する人間は、正しい物語の紡ぎ方や表現方法など存在しないことを実感したうえで、自分が描きたいものをつくっています。
とくに『プリニウス』はマリさんとの合作でしたから、二人とも膨大な史料を調べに調べ、しばしば食い違う意見を戦わせて、どうすればよりよい作品になるか議論しながら制作を進めました。
マリさんは私よりもはるかに古代ローマについて詳しいですが、それでも漫画を描き始めると自分が生み出した人物の動きを大事にして、時には大胆な発想を提案されていました。どちらかというと、私のほうが史料との整合性にとらわれるタイプでしたから、彼女の自由さはとても勉強になりましたね。
プリニウスという人物の解釈についてさまざまな葛藤を経た二人の帰結点、落としどころが最終的に単行本の形になっているもので、あれが結論のつもりです。
【本村】お世辞抜きで、『プリニウス』は何度読んでも新たな発見がある名作だと思いますよ。マリさんが紡ぎ出す人物もさることながら、とりさんが描く素晴らしい背景が古代ローマの世界を見事に表現していました。
【とり・みき】最近の漫画は、登場人物のセリフだけ追えばストーリーがわかるような作品も多いですが、『プリニウス』ではあえて、そうしたことはしませんでした。年代や場所のキャプションも時代背景のナレーションも皆無で不親切です。
その分、背景の建物や小道具や自然描写にも多くの情報をつぎこんで画で語らせたつもりですし、じつはいろいろ細かい遊びもやっていて、もしかしたらマリさんでさえ気付いていない仕掛けがあるかもしれない(笑)。
【本村】登場人物の動きやセリフだけでなくて、背景で表現や説明できるというのは、映画にも言えることですね。その反対に、両者の表現方法では性質が異なる点もあるのではないですか。
【とり・みき】映画では基本的に作り手が観客の時間をコントロールしますが、漫画では読者一人ひとりが自分のペースで読みます。
また、漫画の場合は画の大きさが一コマずつ異なりますが、映画は一定ですから、表現の緩急の付け方はおのずから変わってくる。私は手塚治虫、石ノ森章太郎、大友克洋といった人たちの作品から漫画を学んだので映画との共通項も多いのですが、あえて言えばこのあたりが違いと言えるでしょう。
【本村】いずれにせよ、良質な作品は表現方法やフォーマットが変わっても、時代を超えて多くの人びとに読み継がれます。私たちはそうした作品から多くのことを学んだり気付いたりすることによって、一人ひとりの人生のみならず、これからの社会をよりよくするきっかけを得られるはずです。とくに若い人には、名作と呼ばれる映画に触れてほしいと願わずにはいられません。
更新:03月20日 00:05