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『孫子』は誤解されてきた...「孫子の兵法」を実行しながら天下を取れなかった武田信玄

2024年12月27日 公開

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事・日本経済大学大学院政策科学研究所特任教授)

孫子

世界最古の兵書・『孫子』。いわゆる「孫子の兵法」が広く知られるが、実態は謎が多いうえ、必ずしも実用的な内容とは限らない。『孫子』と古今東西の合戦・戦争を長年、研究してきた著者が、近著『戦略大全 孫子』より実例を挙げて世間の誤解を正す。

※本稿は、海上知明著『戦略大全 孫子』(PHP研究所)から一部を抜粋・編集したものです。

 

具体策が提示されない書物

世に兵書は数多く存在するが、その中でただ1冊を挙げよといわれれば、多くの人は『孫子』の名を挙げるのではないか。

『孫子』は最も普遍性が高い戦略書であり、西のカール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』に対する東の『孫子』という対置関係になるだろう。『孫子』は戦略書の王者ともいえる。

では『孫子』とは、どのような目的で、なぜ書かれたのだろうか。

『孫子』は、現存するものとしては最古の兵書である。最初の兵法は孫武よりも70〜80年前、中国春秋時代の楚の公族・政治家で楚の荘王、後には晋に仕えた呉の申公巫臣(しんこうふしん)によるものではないかとされているが、現存していない。

それどころか、漢の高祖・劉邦の命で韓信と張良が集めたとされる182種の兵書もほとんど残っていない。その中で『孫子』が残り続けた。

世界最古ということは、その価値が高いから残ったということになるかもしれない。『孫子』を読めば名将になれるのか、筆者なども最初に『孫子』を読んだときには大いに期待した。

結果的には読んでガッカリ、ともかく大いなる失望を味わったのである。こうした『孫子』を読む際の期待と読んだあとに味わう現実のギャップは、多くの人が経験するのではないだろうか。

読む者を超人、名将としてしまうのが兵法書ということになっている。ところが実際はマニュアルではないから、書かれていることの応用は各人の創意工夫まかせということになる。戦略書と呼ばれるものでも、マニュアル化されているのはアンドレ・ボーフルの戦略論のような少数に限られる。『孫子』は、その中でもとくに具体策が提示されない書物である。

世界一普遍性をもった戦略書である『孫子』であるが、『孫子』のもつ普遍性は抽象性によってもたらされている。「戦争の様相は変化するが、戦争の本質は不変である」。戦争の様相を重視すると応用も簡単で実用的になるが、時代が変わると役に立たない。戦争の本質を重視すると普遍性・哲学性を有するが、抽象的な記述となり、応用が困難になる。

しかし抽象的な『孫子』に書かれている内容を、具体的な姿として実現できる者がいたら、それこそが真の名将なのである。

 

武田信玄の慎重さと手堅さ

 『孫子』を最も体得した2人の人物、曹操と武田信玄は天下を統一できなかった。曹操は三国を統一できなかったし、武田信玄は上洛もできなかった。とくに、信玄は「動き出した孫子」といえるほどに『孫子』を体得した人物である。

戦前の中世史の泰斗・田中義成氏は、上杉謙信、北条氏康と比較しつつ、武田信玄を高評価した。

「東国に三雄あり、曰く武田信玄(中略)。顧みるに、武田氏は実利を尊び、(中略)其の尊ぶところは即ちその長ずるところなり、信玄は深謀遠慮、計成り機熟し、然後(しかるのち)に動く。然からば尺進ありて寸退なし......云々」

この一文ほど、武田信玄の本質を表したものはない。信玄は「寸退」をすることはなかったが、半面、「尺進」しかしていない。

信玄の最終目標は、上洛して覇者になることである。そのために上洛に足る軍事力を作り上げ、京都までの距離の2乗に反比例するとされる経済力の充実のために、富国強兵と財政政策に努めた。新田開発・治水・金山・特産品・荒地対策・農兵の比重拡大・共同体確立・軍事訓練・侵略と、生涯を通じて、ひたすら力を拡大した。

侵略のやり方は信玄の慎重さと手堅さを示すもので、小さな城を落とすにも万全を期し、小さな村を治めるにも細心の注意を払っている。これは、多くの人々の絶賛を集めている。

しかし、このやり方での天下統一には何年を必要とするのか?

信玄の手堅さと慎重さは、最小の費用と損失で獲物を手に入れるものであった。元亀3年(1527年)、二俣城攻略を行う際、信玄は2万2000人の大軍を率いていた。二俣城は浜松城の北北東20㎞に位置する北遠江の要所であり、天竜川と二俣川に三方向を守られた天然の堀をもった城塞でもある。

この二俣城攻略においては、城兵が天竜川から水を汲み上げていることを知って、天竜川上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を壊して水の手を断ち、落城させている。この攻略は遅くとも10月19日に開始されたというから、12月上旬に陥落させるまでの期間は約2カ月となる。

天正元年(1573年)1月3日に「藪の中」にあった小さな野田城を発見したあとは、金堀人夫を使って水脈を断つという方法で、約1カ月をかけて陥落させている。

これがまだ国力の少ない甲斐国を率いていた青年期ならばともかく、上洛の途上、病魔に冒され、しかも「人間50年」の時代の53歳のときの話である。

 

わずか20日で上洛した織田信長

信玄最後の遠征は、明らかに上洛戦であるが、織田信長の上洛戦を知っている者にとっては、とうていそうとは思えないだろう。信長の場合には上洛までの期間はわずか20日程度、なにしろ永禄11年(1568年)9月7日に開始し、26日には上洛しているのだ。

南近江では本城・観音寺城を中心に18の支城に兵力を分散させた六角氏に対し、大軍をもって力攻めにし、かたっぱしから撃破して短期間に征服してしまった。

それに対して信玄は、元亀3年(1527年)4月7日付の福寿院・善門院宛の願文の中で、ここ1年間は謙信が信濃、上野で軍事行動を取らないようにという祈願がされているから、上洛までに1年間という期間が設定されている。

二俣城攻略中の11月19日に出された朝倉義景宛の条目では、「来年五月に至り、御張陣の事」と書かれている。つまり翌年の5月には、信長を打倒する決戦が朝倉義景との連合によって遂行されるというのである。それでいて元亀3年12月28日付書状で、12月3日に帰国した朝倉義景を非難している。

元亀3年10月の西方への出陣から5月の信長打倒までの行動は連続しているのであるが、義景は、今回の信玄の行動は打倒信長というよりも、信玄が遠江・三河を領有するための戦いにすぎず、そのために多大な戦費をかけながら出陣している自らの役回りをそんなものと解釈した。

出発後2カ月たっても国境から数十kmしか進んでいない。その間に、兵力の損失を最小に抑えながら、二俣城や野田城を攻略しているのである。

信長を義景と挟撃するのが出立から7カ月後、もし野戦で信長を破ったとなれば、その後で岐阜城攻略が開始され、長期の包囲戦を展開したにちがいない。上洛はその後の話になる。下手すれば1年以上の歳月がかかった可能性すらあるのである。

もちろん、信長と野戦で決戦する場合、信長が全兵力を集中できないようにし、信玄自身は率いている兵力を出立時とほとんど変わらないよう温存し、「三方ヶ原合戦」同様に「拙速」に、瞬時に勝敗を決したろうが、そこに至るまでに膨大な時間を費やしていくのである。

 

時の概念の欠如

信玄の鈍足ぶりは、上洛戦に限ったことではない。永禄3年(1560年)の「桶狭間合戦」で、よく整備された情報網を持っていた信玄は即座に今川氏の敗戦を知ったはずである。ちょうど川中島合戦の佳境であり、大規模な動員を怪しまれずに行うことができる状態にあった。

上杉謙信は定められた境界線を侵さない限り信玄を攻撃することはなく、北条氏康は謙信の大規模な関東出兵を前にしていた。

信玄が即時動員をかけ、東海に兵を入れれば敗走する今川軍は壊滅し、駿河国・遠江国はむろんのこと、三河国も、そして今川勢力圏となっていた尾張国の一部までをも瞬時にして併合することが可能であった。

当時の信玄の保有する軍事力から見て、それは十分にできたはずである。そうすれば信玄の領土は一気に2倍以上になったにちがいない。

しかし信玄が南下作戦に転じるのは、8年後、それも三国同盟を遵守したうえ、大義名分までも準備しようというものであった。

『甲陽軍鑑』によれば、永禄11年(1568年)5月、信玄は今川氏真に父の弔い合戦として信長と同盟する家康の三河に攻め入り、戦勝後の領土分割をもちかけた。

氏真がこれを拒絶するところから駿河国侵攻が開始され、永禄11年12月6日の第1次駿河侵攻から元亀2年(1571年)1月の第6次駿河侵攻まで約2年間、7度の遠征でようやく平定しているのである。「桶狭間合戦」からは、実に11年間を経由している。

「時の概念の欠如」は『孫子』に限らず、広く中国の政略に見られるところで、『戦国策』などを読んでも、美女を送り込んで、その後数十年がかりで敵国を衰退させる話が出ている。

もちろん『孫子』の中に、「時の概念の欠如」がストレートな表現で記述されていることはない。しかし、それは行間に隠れていて、あまりにも忠実に『孫子』通りの行動をしていると、やがて表面化してくる。

『孫子』の体現者であった武田信玄が天下を取れなかったのは、その万全で計画的な行動の中に、自分の寿命という要素がなかったからである。

 

著者紹介

海上知明(うなかみ・ともあき)

NPO法人孫子経営塾理事・日本経済大学大学院政策科学研究所特任教授

中央大学経済学部卒業後、企業に勤務しながら大学院に入る。平成14(2002)年3月、博士(経済学)。日本経済大学教授を経て現職。東京海洋大学・HSU講師を務める。戦略研究学会古戦史研究部会代表。

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