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日本一の「ひまわりの里」北竜町が語るもの

2012年07月24日 公開
2023年09月15日 更新

寺田昭一(政策シンクタンクPHP総研シニア・コンサルタント)

小さなまちの大きな歩み

 内外の環境変化の中で、まずは自らの拠って立つところを見直し力強い地域づくりを行おうと、PHP総研が提案して、平成20年から毎年「北海道地域創造フォーラム」を開催してきた。これまで、伊達市、稚内市、松前町、月形町と襷をつなぎながら、先人が地域に込めた思いを掘り起こし、これからのまちづくり、人づくり、心そだてに継承・発見させる方途を追及してきたが、今年は、開町120年を迎えた北竜町で、9月8日(土)に開催することになった。

 この町は、北海道のコメどころ空知平野の西北部に位置する人口2200人余りの小さな町である。23haの台地に130万本のひまわりが咲く「日本一のひまわりの里」として有名な町だが、もうひとつ、開町以来、一貫して、「開拓時の理念」を継承し続けてきたという特異な歴史がある。

 北竜町は、1892年(明治25年)、水害に悩まされてきた千葉県の印旛沼周辺から、吉植庄一郎が第一次の移民を引き連れて入植したことに始まる。「自然環境豊かな農業に適した土地で理想の農村を築きたい」という強い願いでの入植だった。開拓にあたって吉植は、若者や壮年による「培本社」という企業体を組織し、自主独立した農業経営を目指した。そして、牧畜・畑作の欧米式大農業とコメづくりを中心とした日本古来の農業が融合した大規模混合農業こそ北海道の目指すべき道であり、国の発展に寄与する農業であると、開拓にまい進した。また若者や壮年たちに二宮尊徳の教えを説き示し、豊かな自然と土壌を守り生かしてこその農業であることも教えたのである。

 さらに、この千葉移民団から少し後に入植した板谷農場の管理人・北政清は、小作人を監視する立場にありながら、小作人の立場にたって産業組合を組織したのをはじめ、農民による農民のための協同組合運動を先導し、草創期の農協運動に大きな影響を与えた。

 吉植庄一郎が残した「農民の心」と北政清の「協同精神」は、戦後、北竜農協組合長となった後藤三男八に引き継がれていく。後藤は、経済成長の中で日本中が工業化に向かい、減反政策が進む中で、「食糧の生産と自給率の維持は、国力の絶対条件」であると「不農無糧、不桑無衣」(農せざれば糧なく、桑せざれば衣なし)と、「農業者は単に食べ物を生産しているだけではない。国民のいのちと健康を守るのが農業者の役割であり、農村の役割である」と頑なに「原点」を守り続けた。

 その後、北竜町では、行政も農協も町民も一体となって「国民の安心と安全を守る食糧生産のまち」「食糧を生み出してくれる自然と大地を守り続けるまち」を宣言。工場誘致も、ゴルフ場やスキー場等の進出もゆるさず、「農に徹したまちづくり」を現在まで続けている。

 少子高齢化、過疎化、財政難等に見舞われる中で、日本の地域には、「地域資源」と「地域特性」を活かした、力強く持続可能な地域経営が求められている。そのためには、「守るべきものは守る」というしっかりとした理念と、時代に合わせた経営が必要なことは言うまでもない。松尾芭蕉流にいうなら「不易流行の地域経営」といえるかもしれない。北竜町は、開拓以来120年間にわたってそのような地域経営を貫き通し実現してきたまちだといえよう。決して立地条件が良いとは言えないこの小さなまちがなぜ時代の波を超えて生き続けてきたのか、今年の北海道地域創造フォーラムでは、北竜町の120年の歩みを通して、地域づくりの原点を探りたいと考えている。

*北海道地域創造フォーラムは、嚶鳴フォーラムHPに7月下旬に詳細を掲載。北竜町については、北竜町ポータルをご覧下さい。

 

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